Main ブレイブ・ストーリー (上) (角川文庫)

ブレイブ・ストーリー (上) (角川文庫)

Year: 2006
Publisher: 角川書店
Language: japanese
Pages: 728
ISBN 10: 4043611110
ISBN 13: 9784043611119
File: PDF, 1.39 MB
Download (pdf, 1.39 MB)
Preview

You may be interested in

 

ブレイブ・ストーリー (下) (角川文庫)

Year: 2006
Language: japanese
File: PDF, 1.76 MB
 
You can write a book review and share your experiences. Other readers will always be interested in your opinion of the books you've read. Whether you've loved the book or not, if you give your honest and detailed thoughts then people will find new books that are right for them.
1

ブレイブ・ストーリー (上) (角川文庫)

Year: 2006
Language: japanese
File: PDF, 1.21 MB
2

Edaphos: Dynamics of a Natural Soil System

Year: 1999
Language: english
File: PDF, 36.09 MB
ブレイブ・ストーリー
宮部みゆき

上

1

ブレイブ・ストーリー

上

目次

2

5

4

3

2

1

扉

事件の影

見えない女の子

転校生

静かな姫君

幽霊ビル

13

12

11

10

9

8

幻界へ

魔女

秘密

途方にくれて

戦車が来た

現実問題

第一部

6
扉の向こう

ヴィジョン

7

3

6

5

4

3

2

1

見捨てられた教会

高地人たち

交易の町・ガサラ

草原

見習い勇者の旅立ち

おためしのどうくつ

番人たちの村

18

17

16

15

14

13

12

11

ミツルの消息

町と聖堂

リリス

キャンプ

スペクタクルマシン団

マキーバの町で

ミーナ

現世

第二部

7
死霊

うつしよ

8

魔病院
ミツル

19
20

脱出
第一の宝玉

9
10

4

B

R

A

V

E

S

T

O

R

Y

ブレイブ・ストーリー

上

5

なんじ

ふ

あやま

汝は選ばれた。道を踏み誤ることなかれ。

6

1

幽霊ビル

だれ

うわさ

最初はそんなこと、誰も信じていなかった。少しも信じていなかった。噂はいつだって
そういうものだ。

あれは新学期が始まったばかりのころだったろうか。いちばんはじめに言い出したのが

誰だったのか、今となってはわからない。噂はいつだってそういうものだ。

それでもみんな、自分が聞いたことはちゃんと覚えている。どこの誰から聞かされたの

み は し

こ む ら

あすこに幽霊が出るんだってさ﹂

ゆうれい

かも覚えている。それなのに、たどっていっても出発点がわからない。噂はいつだってそ
ういうものだ。
こふねちょう

﹁小舟町のさ、三橋神社の隣にビルが建ってるだろ?
み た にわたる

三谷亘の場合、そんなふうに教えてくれたのは、居酒屋﹁小村﹂のカッちゃんだった。
か つ み

ちょうおんぱ

克美という名前は、彼が生まれるずっと前から決められていたもので、両親は女の子を期

待していたし、超音波検査でも、小村さんのおなかで育っていのは女の子だと、産婦人科

の先生は言っていた。ところが十一年前の四月九日、予定日より一週間も早く生まれてき
ろ う か

たのは元気な男の子で、その大きな泣き声には、産院の誰もが廊下の反対側からでもすぐ

7

とくちょう

に聞き分けられるようになってしまったくらいの特徴があった。ちょっぴりしゃがれ声だっ
たのだ。

ぼう

﹁父ちゃんがさ、オレって母ちゃんの腹のなかでタバコ吸ってたんじゃねえかって言うん
だ﹂
ば

し お ひ が

ついでに言えば、小村克美君は顔色も浅黒い。これも赤ん坊のころからだそうで、ひょっ
お

そろ

とすると小母さんのおなかのなかで、タバコ吸いながら潮干狩りなんかしてたのかもしれ
じょうとう

ない。コイツならそれくらいのことはあっても不思議はないと亘は思う。なにしろ、お揃
ぼ う し

いの黄色い帽子をかぶって城東第一小学校へあがったその年の十二月、教室があんまり寒
しか

いからといって、火力の落ちた古い石油ストーブにぴったりとへばりつき、先生が教室に

入ってきてからもそのままへばりついていて、席に着きなさいと叱られると、
あ い そ

ま

﹁オレにはかまわないでいいスからチャッチャッとやってください、チャッチャッと﹂

と、愛想良く言い放ってしまったというコドモである。亘はその現場を目のあたりに見

て、あまりにおかしかったので家に帰って話したのだが、聞いた方はてっきり作り話だと
じょうだん

思ってしまったのも無理はない。このエピソードは伝説化しつつあり、亘たちが五年生に
なった現在でも、冗談混じりに、

﹁小村、宿題はチャッチャッとやってるか?﹂なんて言う先生がいるほどだ。

亘に噂話を教えてくれたときのカッちゃんの声も、いつもながらにしゃがれていた。

8

ちょっぴり興奮しているのか、〝ユーレイ〟と発音するときにはそこが裏返った。
﹁カッちゃんはユーレイ話好きだからなぁ﹂
もくげき

に

﹁オレだけじゃないって、みんな言ってるって。夜中にあそこを通りかかって、バッチリ

目撃しちゃったヤツもいてさ、あわてて逃げ出したら追いかけられたんだって﹂
﹁どんな幽霊なのさ﹂
めずら

﹁ナンカじいさんらしい﹂
老人の幽霊というのは珍しくないか?
﹁どんな格好してンの﹂

カッちゃんはごしごしと鼻の下をこすると、しゃがれ声を低くした。
﹁マント着てるんだって。真っ黒なマント。すっぽりと、こう﹂
と、頭から何かかぶる仕草をした。

﹁それじゃ顔見えないじゃんか。なんでじいさんだってわかるんだよ﹂

お

カッちゃんは顔をくしゃくしゃにした。スーパーや駅で、たまにカッちゃんが小村の小
じ

父さんと連れだっているのに行き合うと、小父さんもちょうどこれと同じような顔をして、
﹁よ、元気か?﹂と声をかけてくれる。
﹁わかるもんはわかるんだよ。そういうもんだろ、ユーレイは﹂
カッちゃんは言って、ニッと笑った。

9

あきら

む す こ

﹁おまえってヘンなとこマジメでカチカチね。やっぱ鉄骨屋の息子﹂

亘の父の三谷明は製鉄会社に勤めている。製造業のなかでも製鉄や造船は、基幹産業と

しての役割が縮小してくるにつれて、本業以外のいろいろな分野に手を広げて会社の活性

化を図らずにはいられなくなって、だから今年三十八歳になる明も、製鉄の現場には、新

入社員のころのごく短期間しかいたことがない。以来ずっと企画研究や広報の担当部署を
ようちえん

回っていて、現在はリゾート開発専門の子会社に出向している。それなのにカッちゃんは、

づ

なっとく

製鉄会社というだけで﹁鉄骨屋﹂と呼ぶのだ。幼稚園のときからの付き合いなのだから、
いい加減で覚えてもらいたいものである。
り

し て き

それでも確かに亘には、頭の固いところがある││らしい。理詰めでないと納得しない
ゆず

ところもある││らしい。本人はほとんど自覚していないが、そう指摘されることは少な
ぼうそう

くない。そしてこの性質は、明らかに父親譲りのものであるらしい。最初にそのことをズ

バリと口に出したのは房総にいる父方の祖母で、今から三年ほど前のことだった。夏休み
か ら だ

に帰省して、海でさんざん泳いだ後、身体が冷えているからかき氷なんか食べてはいけな
け ん か

く に こ

いと小言を言われて、口答えしたのがきっかけで喧嘩になった。そのとき、

あ

﹁まあまあ、この子も明とそっくりだ。口が減らないね。これじゃ邦子さんもえらい苦労
だよ﹂
ば

千葉のお祖母ちゃんはそう言ったのである。

10

よめ

このとき、亘の母親でありお祖母ちゃんにとっては﹁嫁のクニコ﹂である三谷邦子は、
全然聞こえないフリをしていた。

けっこん

﹁お母さんが千葉のお祖母ちゃんに、あんな同情的なことを言ってもらうのって、結婚十
年にして二回目ぐらいかなあ﹂

たず

母は後でそんなことを言っていた。なんでお祖母ちゃんと喧嘩したのと尋ねるので、

﹁海水浴の後でかき氷を食べちゃいけないっていうのなら、じゃあなんでお祖母ちゃんと
こでかき氷売ってるんだって訊いたんだ﹂

答えると、母は声をたてて笑った。三谷明の実家は房総半島の大浜という海水浴場で飲

いそが

り く つ

食店を経営しており、海の家の経営権も持っているのだ。いちばん忙しい時期には、お祖
母ちゃん自身がかき氷をつくったりしているのである。
な

﹁あんたの言うことはもっともよ﹂

亘の頭をするするっと撫でて、邦子は言った。﹁だけどあんたが理屈っぽいっていうの
つ

も確かね。お父さんの頭を継いだのね﹂
きら

ふ き げ ん

当の明は、後日この話を聞かされて、そういうのは子供の減らず口というのであって、

理屈を重んじて筋の通らないことを嫌うのとはまったく違うと、いささか不機嫌な顔をし
そこ

たそうである。その機嫌の損ね方もまた理詰めだと、まあ言えなくもない。
しょうぶん

とにかく、そういう性分の亘に言わせると、そのユーレイとやらの噂話には、ヘンテコ

11

なところがたくさんあった。

そもそも、問題の三橋神社隣のビルというのは、正確には建築中のビルで、まだ落成し

てはいない。亘の通学路のちょうど中間あたりにあるので、毎日往復そこを通りかかる。
だからよく知っている。噂では、その点がまず不正確だ。

実を言えはこのビル、ずっと建築中のままなのだ。工事が始まったのは、亘が二年生か

ら三年生になる春休みのことだったから、もう二年以上も前のことである。地上八階建て

の鉄骨か組み上がり、全体が青いビニールシートで覆われるところまでは順調に進んだよ

か

うなのだが、そこから先はぴたりと作業が止まってしまった。亘が気がついた限りでは、
か

作業員が姿を消し、作業用の重機も出入りしなくなってしばらくして、青いシートが掛け

替えられた。その際に、そこに印刷されている工務店の名前も変わった。
ちゅうと

ところが邦子の話では、そのあともう一度、シートが変わったという。そのときもやは

り工務店の名前が変わった。だがそれ以来は何の変化もなく、中途のビルはビルになり損

かか

ねた青いほおかむりのまま、周囲の家々を見おろして寒そうに立っている。正面に掲げら
せこうぬし

れていた﹁建築計画のお知らせ﹂看板も、あるときから見えなくなってそれきりだ。
そんなに珍しいことじゃないよ、昨今は﹂

﹁施工主と工務店とのあいだでイザコザでもあって、作業が止まっちゃってるんじゃない
か?

父がそんなことを言うのを耳にして、フーンと思ったきり、亘も忘れていた。ところが

12

ぶんじょう

その後、邦子がいろいろ訊いてきたのだ。
わずら

こうに

三谷家は、世帯数三百戸近い大型分譲マンションに住んでいる。亘が生まれてすぐに購
ゅう

入し、引っ越してきた。近所付き合いの煩いを嫌ってマンション住まいを選んだ三谷夫妻

むか

だが、小さな子供がいれば、その子供を通じた付き合いぐらいは生じてくるものだ。亘も
いっしょ

マンションのなかで仲良しの友達が数人できた。一緒に幼稚園のお迎えバスにも乗った。
くわ

邦子も母親同士の友達の輪をつくった。そうしてできたご近所仲間のなかに、地元の不動

産会社の社長夫人がいて、地域のことにはいろいろ詳しく、ある日立ち話のついでに、三
しょうさい

橋神社隣の〝気の毒なビル〟の詳細について教えてくれたのだった。
の

ゆいしょ

﹁あたしずっと気になってたんだけど、あのビルは三橋神社のものじゃないのよ﹂

じ

それでやっぱり、維持していくのが大変なんだっ

い

三橋神社は地元では歴史が古く、江戸時代の古地図にも載っているくらい由緒正しいと
ころなのだそうだ。
し き ち

﹁敷地だってすごく広かったでしょ?
しゃでん

だいまつ

て。でね、古くなった社殿を改装工事する時に、空いてた土地を売ったんだって。あのビ
か ん だ

ルは、そこに建ってるのよ。だから持ち主は神社じゃないの﹂

土地を買い、そこにビルを建てたのは、神田の方に本社のある﹁大松ビル﹂という賃し

ビル会社だという。ほかにも都内のあちこちに物件を持っていて、神社が取引するくらい
かた

なんだから堅い会社なのたろうが、大手ではない。大松三郎という古めかしい名前の社長

13

さんが一人で切り盛りしている個人会社だそうである。

亘たちが住むこの地域は、東京でも東側のいわゆる下町地区だ。昔は町工場ばかりだっ

たところだけれど、実は都心までの通勤時間が三十分内外という足の便の良さがあって、
こし

ぬ

ここ十年ほどで急速にマンション開発が進んだ。それにつれて町の姿も変わった。やはり

お だ わ ら

土地っ子である社長夫人は、﹁まるで町全体が玉の輿にでも乗ったみたいよ。あか抜け
ちゃって﹂と表現している。

亘の父は千葉の生まれだし、母の実家は小田原だ。だから、土地の人たちの感じるとこ

やす

ろを百パーセント理解することはできないけれど、それでも﹁にぎやかだけど住み易い町
そんしょく

だ﹂というぐらいの実感はある。ニョキニョキと立ち並ぶ新しいマンションの売出価格が、

都内で人気の地域のそれと比べても遜色ないということも、広告を見るだけでよくわかる。
し は ら

だから、三橋神社の隣に土地を買って貸しビルを建てるというアイディアも、悪くないと

いう感じがする。事実﹁大松ヒル﹂は、結構なお金を支払ったらしいのだ。

﹁お隣が神社だから、テナントは何でもいいってわけにはいかないわよね。あそこは商業
地区だけど、すぐ後ろは第一種住居専用地域だし﹂
じゅく

邦子は社長夫人に教えてもらった覚えたての言葉を使って説明した。
きっさてん

﹁それでも、喫茶店とか美容院とか学習塾とか、テナントはいろいろ見込めたらしいの。
ちんたい

上の方は賃貸マンションにする予定だったそうだし。ところがね││﹂

14

うけおいさき

とうさん

鉄骨が組み上がってまもなく、最初に施工を請け負っていた工務店が倒産してしまった
めんどう

のである。﹁大松ビル﹂では急いで次の請負先を探したが、こういう仕事を中途から引き
ふ つ う

継ぐと、作業が普通より倍も面倒になるらしく、それだけお金もかかるわけで、なかなか

折り合う条件のところが見つからなかった。そこで二ヵ月ほどのブランクがあったが、やっ

となんとか新しい工務店を見つけて、仕事を続けてもらえることになった。このとき、青
いビニールシートが替えられたのだった。
﹁で、新しいところが来たんだけど││﹂

なんと、ほんの数ヵ月で、今度はそこがまた倒産してしまったのだという。
ほんそう

﹁大松の社長さんも困り果ててね。あっちこっち奔走して、工務店を探したわけよ。それ

で三つめの会社が見つかったんだけど、そこは今までのふたつよりも小さいところで、社

長さんが何から何まで切り盛りしててね、そういう点では大松ビルとよく似てて、いやぁ

気の毒に大変ですねって感じで、なんていうのかしら、意気に感じてっていうか、人助けっ
けいやく

ていうか、とにかくそれで契約してくれたんだそうよ﹂
あ と つ

ところが本契約の三日後、その工務店社長が急死した。脳卒中だったそうだ。
ご

﹁小さい工務店だから、社長抜きじゃ動きがとれないわけよ。跡継ぎもいない。社長の息
ほ

子さんはまだ大学生なんですって。結局、施工の契約も反古になっちゃって、ビルはまた
立ちんぼう﹂

15

そして現在に至るという事情なのである。
つて

﹁大松の社長さんも必死で新しい工務店を探して││まあ、伝もあるでしょうからね。そ

たの

れにこの不景気でしょう、引き受けてくれそうなところが見つからないわけじゃないんで
だ

すって。たけど、経営が苦しくて、そういう仕事に飛びついてくるようなところに頼んで、
む

ちょっとのあいだにまた倒産されたんじゃ、また時間もお金も無駄になるわけよね。それ
え ん ぎ

かつ

げん

に、建築の世界って、ホラ家相とかそういうのだってあるくらいだから、やっぱりまだま

だいろいろと縁起を担いだりするらしいの。それで、大松さんのあの貸しビルは験が悪いっ
いや

て評判が立っちゃって、嫌がられてね。なかなか話がまとまらないんだってよ﹂

かわ

日々、登下校の途中で観察するだけでも、中途のまま放置されたこの不運なビルの状態
よご

が目に見えて悪くなってゆくことは、よくわかった。コンクリートは乾いてひび割れ、鉄
ねこ

骨は雨ざらしで汚れている。シートの足元には、心ない人が捨てていくゴミがいっぱい散
らばり、犬や猫のフンもそこかしこに落ちている。
あお

春先には、強風に煽られてシートが一枚外れてしまい、以来、支柱の鉄骨の一部と、二
おど

うかが

階にあがる鉄製の階段のちょうど踊り場あたりのところが、道ばたからもよく見えるよう

になった。それでも、通行人がシートの内側の様子を窺い知ることができるのはその場所
しゅつぼつ

からだけだから、問題のユーレイは、たぶんそこに出没するのだろう。

いったいどこの誰の幽霊だというのだ。老人の幽霊だというのだから、これまでの不運

16

な

工務店の社

な事情を聞いて、そのうえで思い当たるのは、工事を引き受けながら脳卒中で亡くなった

三番目の工務店の社長ぐらいのものだ。だけどフードをかぶっているって?

長さんがそんな格好をするだろうか。百歩譲って、その社長さんが生前フード付きのコー

トを愛用していて、だからそれを着用した姿で幽霊となっているのだとしても、じゃあ何

契約していながら仕事にとりかかること

ゆ く え

工事の行方が心配だから?

で出てくるのだ?

ずいぶん律儀な話だ。それに、同じ業界

り ち ぎ

さえできなかったので、申し訳ないと思って?

人なのたから、自分が幽霊になって出たりしたら、縁起を担ぐ建築屋さんたちがますます

工事の続きを引き受けてくれなくなって、かえって大松の社長さんを困らせることになる
とわからないはずはないだろう。

そんなふうに思っていた今日の休み時間のことだ、またぞろ幽霊話が話題になったから、

とりつ

亘は自分の意見を述べた。するとクラスメイトの女の子たちは、あのビルに出るのは〝ジ
バクレイ〟なのだと言った。
はな

﹁交通事故とかで死んだ人の霊が、あの場所から離れられなくて憑いてるのよ﹂

しかしそれもヘンな話じゃないか。ビルの在る場所は、ちょっと前までは神社の敷地の
なかだったのだ。交通事故なんて起こるわけかない。
けいだい

﹁じゃあ神社の境内で自殺した人がいたのよ、きっと﹂女の子は言い返した。﹁その人の
霊か迷ってるのよ﹂

17

そういうのを感じて﹂別の女の子が言う。ま

﹁あたし前から、あの神社へ行くと背中がすうっと寒くなって、足がガタガタしてしょう
がなかったの。フキッな感じっていうの?

た別の女の子が﹁そうそう、あたしも﹂としきりにうなずく。

﹁ホントに境内で自殺した人がいるのかとうか、確かめたのかよ﹂亘は彼女たちに尋ねた。
かんぬし

﹁神主さんに訊いてみたのかよ?﹂
女の子たちは色めきたった。
﹁バカみたい!﹂
﹁そんなことするわけないじゃない!﹂
﹁なんであたしたちがそんなこと訊きに行かなきゃならないのよう﹂
﹁あんな神社に近づくだけで気味悪いのに﹂
とが

亘は負けずに言い張った。﹁だけど、それじゃ事実がわからないじゃないかよ﹂

最初の女の子が口を尖らせた。﹁あそこに幽霊が出るってことは、あそこにジバクレイ
リクツばっかり言うんだもの﹂

のろ

がいるっていうことなのよ。何よ、事実なんて言ってイバッちゃって。だから、みんな三
谷なんか大嫌いなんだよ!

﹁そんなこと言って霊とかバカにしてると、あんた、いつかきっと呪われるわよ﹂
やつ

﹁イヤな奴!﹂
もど

女の子たちはプンプンして、それぞれの席に戻っていってしまった。亘はさすがにショッ

18

だま

おの

クを受けて、黙って机に向かっていた。どんなに向こうの言っていることが筋が通らない

と思っても、﹁みんなあんたなんか大嫌いなんだ﹂と言い放たれてはかなわない。心に斧
を打ち込まれたようなものだ。

ふ

帰り道、カッちゃんと並んで歩きながら、何を話しかけられても、昨夜、サッカーの日
ご か く

お

本代表チームがアウェイでイランの代表チームと互角に戦ったという心はずむ話題を振ら

もんちゃく

すご

れても、ほとんどおしゃべりする気分になれなかったのも、休み時間の悶着が尾を引いて

いたからだった。一方のカッちゃんは一人で盛りあがっており、やっぱりヒデは凄いぜと
こぶし

かオノはカッコいいぜとか、宙に向かって拳をぶんぶん振り回しながら力説している。昨

夜の試合を見ていなかった人でも、カッちゃんの演説をひととおり聞けば、試合経過がばっ
ちりよくわかることだろう。
じっきょうちゅうけい

二人は問題のビルの近くにさしかかった。普段なら、カッちゃんはこのひとつ手前の角

で右に曲がってバイバイする。今日はサッカーの再現実況中継解説付きに夢中になるあま
り、帰ることを忘れているらしい。
﹁ねえ、カッちゃん﹂
かた

亘が声をかけると、ヒデが前半三十二分に通したスルーパスの角度について、ボディア
て ん ぷ

何?﹂

クション添付で説明していたカッちゃんは、片足をあげたま肩ごしに振り返った。
﹁あん?

19

おお

﹁ここなんだよな⋮⋮﹂
さ つ き ば

うすよご

亘はシートに覆われたビルを見あげた。鉄骨でできた空っぽの細長い箱が、ボロボロの
みじ

さび

布をかぶってしょんぼりしている。今日はまた五月晴れ、空が真っ青だから、薄汚れた青
じ

め

いビニールシートがなおさらに惨めで悲しそうだ。見捨てられて寂しそうだ。
ま

﹁何だよ、真面目な顔しちゃって﹂カッちゃんは体勢を立て直し、亘の顔をのぞきこんだ。
あ っ け

﹁オレ、確かめてみたいんだ。本当に幽霊が現れるのかどうか。現れるならどんな幽霊な
ほねさら

あお

のか﹂亘の言葉に、カッちゃんはちょっと呆気にとられたように目をパチパチさせた。そ
なら

かいちゅう

れから、亘に倣って骨晒しのビルを仰いだ。しばらくのあいだそうしていたが、亘が何も
続けて言わないので、頭をかいて振り返った。
﹁どうやンの?﹂
あれ、貸してくンない?﹂

﹁夜、張り込む﹂亘は言って、早足で歩き出した。﹁カッちゃんとこ、でっかい懐中電灯
があるよな?

カッちゃんは走って追いついてきた。﹁いいけど、あれって持ち出すのメンドウなんだ。
おこ

非常用だって、オヤジが怒るから﹂

おそ

だいしんさい

カッちゃんの父親の小村の小父さんは神戸の生まれである。もう東京に出てきてからの
あた

年月の方が長いし、カッちゃんもこちらで生まれたのだが、それでも故郷を襲った大震災
しょうげき

は、小父さんの心に大変な衝撃を与えた。小村家の防災対策は、ひょっとしたら都庁あた

20

りょうが

ばんぜん

りを凌駕するくらいの万全さである。

﹁そんならいいや﹂亘はますます早足になって、背中で言った。﹁自分で都合する﹂
﹁待てよ。いいよ、持ち出してやるよ﹂

なんでユーレイなんかにそんなにこだわるんだよ﹂

カッちゃんは少しあわて始めた。亘があまりに思い詰めているからだろう。
﹁おまえ、どうかしたの?

こだわっているのは幽霊じゃない。女の子たちに﹁大嫌いだ﹂と言われたことだ。﹁理

屈ばっかり言う﹂のが、そんなに悪いことなのか知りたいだけだ。だって亘は、彼女たち

みんなが

の話のツジツマがあわなくておかしいから、自然に浮かんできた疑問を口に出しただけだっ
たのだから。

たとえ正しいことでも、みんなが信じてないことは言っちゃいけないのか?
の

そうでないと嫌われて、女の子たちにも相手にしてもらえなくなるのか?

気持ち良くウソウソとうなずいてくれないことは、ぐっと黙って呑み込まなきゃいけない
のか?

つ

だけどそんなこと、カッコ悪くて言えなかった。だから亘は黙ったまま、怒ったような
顔をして歩き続けた。
﹁何時だよ﹂後ろからカッちゃんが言った。﹁おい、返事しろよ﹂
亘は立ち止まった。﹁何時って?﹂
け

カッちゃんは、空に浮かんだ見えないサッカーボールを蹴るみたいに、ぽんと右足を突

21

き出した。
﹁張り込みだよ。付き合ってやるよゥ﹂
は

うれ

よい

ぱ

自分でも恥ずかしくなるくらいに、亘は嬉しかった。﹁やっぱり、真夜中だろ﹂

﹁十二時かぁ﹂カッちゃんは笑った。﹁オレんとこは宵っ張りの商売だからいいけど、お
うち

まえ、家を抜け出せンの?﹂
れ い じ

言われてみればそのとおり、亘には、午前零時近くになって家を抜け出すなんて、現実
にはほとんど不可能なのだった。
おそ

亘の家は父と母と亘の家族三人だが、一年のうち二百日ぐらいは、母と二人暮らしのよ

うなものだった。父の明は帰宅時間が遅いし、休日もなんだかんだと外出ばかり。リゾー
かか

ト開発に関わるようになってからは長期の出張も増えて、一ヵ月のうち半分も家にいれば

いいくらいだというような忙しさだ。だから、明は今まで、亘の日曜参観や運動会に来て

くれたことが一度もない。いつも直前までは何とかして行くと約束してくれるのたが、そ
の約束が果たされることはなかった。

まあ、日曜参観なんてどうでもいい。そんなことをいつまでもグズグズ気にしているほ

ど、亘は赤ちゃんではないのだ。父さんは忙しいのだし、仕事の約束は守らなくてはなら

ない。それよりも、目前の問題は、今夜も百パーセント確実に、父親の帰りは真夜中過ぎ

22

おもしろ

になるだろうということた。そしてその父を、母は起きて待っているだろうということだ。
ふ

ろ

編み物をしたり、雑誌を読んだり、深夜のテレビに面白いものがないと、レンタルビデオ
み

ね

を借りてきて観ていることもある。帰宅した父を風呂に入れ、夜食を食べさせ、その片づ

けを済ませてからでなければ、母は絶対に寝ない。どうやってその目をごまかし、外出す
ることができるだろう。
き せ き

夕食を食べなから、亘は奇跡を願った。今日に限って父親の帰りが早くて、くたびれた

とか言って、両親共早々に床についてはくれないものか。二人が寝静まってからなら、足
しの

ふ と ん

ぼうねん

音を忍ばせて外へ出ることもできる。万にひとつ、部屋をのぞかれたときの用心に、クマ
かい

ちゅうせん

のぬいぐるみを布団の下に隠して替え玉にしておけばいい。明が昨年の暮れ、会社の忘年

会の抽選で当ててきたのだが、一秒の百分の一のあいだも亘の関心を引くことのなかった
かつやく

ぬいぐるみ君にも、それでやっと活躍の場ができるだろう。

しかし現実はあくまでも現実だった。いつものように母さんと二人で夕食を食べ、宿題

をちゃんとやりなさいよ、今日返してもらってきた作文は、文章や内容よりもまず先に漢
しば

字の間違いが多すぎるわねと小言を言われ、一時間ほど机に縛りつけられて、そのあと風
呂に入って、出てきたら﹁小村君から電話があったよ﹂と言われた。

﹁急ぎの用じゃないみたいだったし、明日学校で話してねって言っておいたから。前にも

言ったけど、母さんは、小学生の子供が夜も九時を過ぎてから電話のやりとりをすること

23

には反対です﹂
母さんは腰に両手をあてていた。
せ り ふ

﹁小村君のお家は水商売だから、また考え方が違うんでしょうけどね﹂
つめ

母さんのこういう台詞を聞かされると、亘はいつも︵ナンだよコンチクショウ︶という
すみ

気分になった。それは胸の隅っこのいちばん皮の薄い部分を、爪の先でチクンとつねられ
つ

るような感じだった。そんなに目を吊りあげなくても、母さんがカッちゃんをよく思って

いないことはわかっている。小村の小父さん小母さんを嫌っていることも知っている。ど

よ

うしてかと言ったらそれは小村の家が居酒屋で、﹁教養がなくて下品で、良くない人たち
が出入りする家﹂だからなんだろう。
だけどカッちゃんは、亘にとっては友達なのだ。
けしょう

こ

小村の小父さんは、確かに品が悪いかもしれない。校庭開放の当番に酔っぱらって赤い

あつ

顔をして来て、先生に注意されたことがある。小母さんは化粧が濃いので、商店街の反対
にお

はだいろ

側にいたって、匂いですぐわかる。カッちゃん本人が、うちのオフクロは顔がでかいし厚
ぬ

塗りするから、ファンデーションとかいう肌色のクリームが普通の人の倍かかるんだ、だ

から化粧品屋のお得意なんだと笑っていたことだってある。だけど亘は小父さん小母さん
おうえん

が嫌いじゃない。運動会に来れば、二人とも亘のことまで応援してくれるし、三年生の春

の参観日に、たまたま亘が算数でちょっと難しい問題を解いたら、小父さんは大声で﹁お

24

えら

お、偉いぞ!﹂と努めてくれて、みんなにクスクス笑われても、全然気にしなかった。亘

かがや

はそんなふうに手放しで褒めてもらったのは初めてだったから、その日のことは、土くれ
か け ら

けいべつ

に混じって光る色ガラスの欠片のように、ずいぶん長いこと心のなかで輝いていた。

母さんが小村の人たちを軽蔑したような目つきをするとき、すぐに言い返そうと思うの
のど

だけれど、言葉はいつも、喉の真ん中あたりでしょぼしょぼと消えてしまう。そうすると、

小村の小父さん小母さんを、ひいてはカッちゃんを裏切っているような気分になる。それ

なのに反論できないのは、心のどこかで、母さんの言うことには一理あると認めているか

らかもしれない。﹁小村﹂に出入りするお客さんたちを、亘は詳しくは知らないけれど、

カッちゃんから話を聞くだけでも、父さんの会社の人たちとは、ずいぶん性質の違う人た

ちの集まりだと感じる。進んで居酒屋の主人になりたいかと問われたら、かぶりを振るだ

ろう。まだ具体的には言えないけれど、将来は大学で何か研究する人か、弁護士になりた

いと考えているから。いろいろな言葉を使うけれと、結局母さんは三谷家と小村家は仲間

ではないと言っているのであり、亘にもそれは理解できるのだ。カッちゃんの電話は、今

夜本当に抜け出せるか、確かめるためのものだろう。三谷家の電話はリピングにあるだけ

は

なが

なので、こっそりかけることはできない。ひどく後ろめたい気がして、亘は惨めになった。
あご

││いくじなしなんだ、オレは。
りょうひじ

机に両肘をついて顎を載せ、机の正面に貼られた時間割をぼんやりと眺める。明日の一

25

時間目は国語だ。確かまた作文を書かされるんじゃなかったっけ。カッちゃんは作文が大
の苦手で、いつも亘にいろいろ尋ねてくる。

だけどもしも今夜すっぽかしてしまったら、明日は怒ってそっぽを向いているだろう。
当然だ。
だいじょうぶ

﹁大丈夫よ、そんなことないわよ﹂
とつぜん

い

す

突然、背後で誰かがそう言った。甘い女の子の声だった。

亘はぎょっとして飛びあがった。はずみで椅子がギシッと鳴った。振り返ったけれど、
じょう

六畳の広さの子供部屋には、もちろん誰もいるはずがない。去年の夏、一学期の成績が思

いがけないほど良かったので、ねだりにねだって買ってもらった十四インチのテレビも、
今はスイッチを切ってある。
い ね む

あざ

しばらくあたりを見回してから、亘は視線を前に戻し、椅子に座り直した。ぼんやりし

ているうちに、居眠りしたのだろうか。そういう時に見る夢はすごく鮮やかで、現実と見

分けがつきにくいものだって、このあいだテレビで学者の先生が説明していた。
ところが、同じ声がまた話しかけてきた。

﹁今夜出かけられるわよ。だから今のうちに、ちょっと眠っておいた方がいいわよ﹂
す ば や

今度こそ亘は椅子から転がり落ちた。素早く体勢を立て直して、目が回りそうな勢いで

部屋中を見回した。青いチェックのカバーをかけたベッド。参考書や童話の本の後ろにマ

26

ほんだな

わき

ンガを隠してしまってある本棚。テレビの脇のゲーム機には、花模様のハンカチがかぶせ

ほう

てある。亘はテレビゲームが大好きなのだけれど、母さんが許してくれるソフトでしか遊
ほこり

ぶことができないので││買うのはもちろん、借りることにも母さんの許可がいる││放っ
む

ぬ

ておくとゲーム機はすぐに埃だらけになってしまうのだ。足元のカーペットは椅子のキャ
す

スターがあたるところだけ擦り剥けて、亘が脱ぎ捨てたスリッパが机の後ろの方に転がっ
ている。
誰もいない。亘以外には誰も。
﹁あたしのこと探しても、見えないわよ﹂
ひび

女の子の声が、亘の頭のなかに響いてきた。﹁今はまだ、ね﹂

か

心臓がバクバクする。パックマンみたいな形になっちゃってるんじゃないか?
﹁た、だ、誰?﹂

亘は声に出して、見慣れた部屋の嗅ぎ慣れた匂いの少し埃っぽいような空気のなかに問
ささや

いかけた。囁くような声だった。誰もいないところに話しかけるなんてバカだ。頭のなか

で声がするなんておかしい。だけど、うんと小さな声を出すならば、そんなふるまいをす
ることに対する恥ずかしさも、少しは目減りするというものだ。
﹁さあ、誰でしょう?﹂
見えない女の子の声は楽しそうに笑った。

27

ち こ く

﹁そんなことより、早くお布団に入りなさい。夜遊びするんだから、眠っておかないとダ
メ。明日学校に遅刻しちゃうよ﹂
しゅんかん

瞬間的にさまざまな判断が入り乱れた。その数といったら博物館で見た進化の系統樹の

む

枝分かれした数よりも多いくらいだったけれど、亘はいちばん子供らしいものを選んだ。
部屋を飛び出したのだ。
﹁なあに、とうしたの?﹂
食べたら歯を磨いて、もう寝る時間よ﹂

みが

邦子は台所のテーブルについて、リンゴを剥いていた。
﹁ひとつ食べる?

へなへなと腰が抜けそうになって、亘は柱につかまった。

ぜ

なめ

風邪をひいたの

か

﹁あら嫌だ、顔色が悪いじゃないの﹂邦子は言って包丁をテーブルの上に置き、ちょっと
せき

首をかしげて亘を見た。﹁そういえば今朝ちょっと咳をしてたでしょ?
かしらね﹂

気持ち悪いの?

吐き気がする?﹂

亘が返事をしないので、母は立ちあがって近づいてきた。亘の額に冷たく滑らかな手が
さわ

触った。
ひやあせ

﹁熱はないみたいだけど⋮⋮冷汗をかいてるの?

ううん大丈夫お休みなさいというようなことを、亘は口にしたらしい。フラフラしたま

ま部屋に帰ってドアを閉め、よりかかった。背中に響くノックの音がした。

28

﹁亘?

ちょっとどうしたの?

本当に大丈夫なの?

﹁平気だよ、具合なんか悪くない﹂

ねえ﹂

ど う き

何とか気を取り直して、亘は答えた。母に何か説明することを考えると、もっともっと
面倒で混乱しそうだった。
や

おどろ

やっとノックの音が止んだので、ドアを離れてベッドの上に転がった。あまりに動悸が
かわいそう

激しくて息が苦しく、本当に目が回ってきた。

﹁ごめんね、可哀想に﹂女の子の声がまた聞こえてきた。﹁驚かすつもりはなかったの﹂
ふさ

くらやみ

亘は両耳を両手で塞いで、ぎゅっと目を閉じた。そのまま気絶するみたいにして、周り
が暗くなるのに任せた。

そんなつもりはなかったのに、眠ってしまったらしい。暗闇のなかから飛び出すように

して目を覚ますと、ベッドの脇の目覚まし時計は十一時五十分を指している。亘はがばっ

と起きあがった。短いあいだでも服を着たまま眠ったせいで、ちょっと汗っぽい感じがし
て、だけどちょっと寒かった。

そっと部屋のドアを開けて、台所をのぞいた。テレビがついていて、ニュースショウを
やっている。母さんがいつも観ている番組た。
ふ

しかし、当の本人は眠っていた。台所のテーブルに伏して、スヤスヤと寝息をたてて。

29

お化けビルから一区画南側にある公園の入口のところ。待ち合わせ場所に、カッちゃん

は先に来ていた。カッちゃんはたいてい早めに来る。これも親譲りのせっかちのせいかも
おく

しれない。
﹁遅れ、て、ご、めん﹂

亘は息が切れて、ちゃんとしゃべれない。このくらい走っただけでぜいぜいいうなんて

恥ずかしいようなことだけれど、どうにも止まらなかった。おかしな出来事を家のなかに
置いてきぼりにしてきたせいだろう。
こわ

﹁小母さん、あんな怖い声出してたのに、よく出てこれたなぁ﹂
さく

ゴメン﹂

カッちゃんは公園の柵に飛びついて、猿みたいに忙しく動き回りながら言った。
﹁電話だろ?

﹁ベツにいいけど。おまえんとこの小母さん、ウチにはいつもああいう感じたからサ﹂

カッちゃんはさらりと言ったか、亘は後ろめたさに首が縮んだ。カッちゃんだって、母

さんが小村家の人たちに対して、特につっけんどんな態度をとっているってことぐらい、
﹁小母さん先に寝ちゃったの?

おまえどうやって抜け出してきたの?﹂

そんなわけないよなぁ。小父さんが帰ってくるまで、着

ちゃんと気づいているのた。
替えもしないで待ってんだろ?

ひとみ

カッちゃんの真っ黒な木の実みたいな瞳が、驚きと好奇心に、街灯の光を映してキラキ

30

ラ光っている。その顔を見て、亘は今さらのように、確かにあの母さんの様子は異常だと
実感した。思わず、家の方を振り返った。
﹁それが││寝てんだよ﹂
﹁風邪ひいたの?﹂
みゃくらく

亘は黙って首を振った。いくつもの、脈絡のない質問が喉元まで込みあがってくるのを、
じょうざい

女の子の声だったりし

誰もいないところで、自分以外の誰

飲みにくい大きな錠剤を飲み下すみたいにして押し戻す。カッちゃん、眠るんじゃなくて、
目の前が真っ暗になって、気絶したことってある?

それって異常?

ま ど う し

押しても引いてもビクともしないんだ。耳元

それよりも何よりも、小村の小父さんや小母さんは、台所のテーブ

かが話しかけてくる声を聞いたことってある?
たら、もっと異常?
な

ルに突っ伏して、ぐうぐう眠ったりする?
ど

で怒鳴っても目を覚まさないんだ。まるで魔導士にスリープの魔法をかけられたみたいな

ヘンなんだよ。オレ、ちょっと怖

んだ。頭の上から﹁ZZZ﹂のマークが出てるんじゃないかって、オレ探しちゃったくら
いなんだ。誰かがそんな寝方するの、見たことある?
いんだよ。
﹁ま、いいや。早く行こうよ﹂

うず

カッちゃんは公園の柵の上からぴょんと飛び降りた。そのひと声で、亘は質問の渦を呑
み込んだ。うんと言って、走り出した。

31

2

静かな姫君

ゆうれい

あか

となり

みょう

幽霊ビルはこの時刻でも、青いシートに街灯の灯りを映して、妙に安っぽく光って見え
ね し ず

た。周囲の家々は門灯も消し、窓灯りも減って寝静まり、隣の三橋神社もこんもりとした

こうよう

黒い木立に囲まれてしんとしているなかで、その明るさがかえってこのビルのデキソコナ
うんどうぐつ

イぶりを強調しているようにも見える。
き ょ り

この目で確かめるんだ。

短い距離でも、運動靴の底を鳴らして走ったことで気分が高揚し、ようやく亘は今夜の
は あ く

目的をはっきりと把握し直した。幽霊は本当に出るのか?
じ ゃ ま

だれ

なら

ひと

だが、神社の前を通り過ぎてビルへ向かおうとすると、すぐ前を走っていたカッちゃん
ささや

がパッと立ち止まり、手を広げて邪魔をした。﹁誰かいるよ﹂

声をひそめて囁くと、神社の塀に背中をつけた。亘も反射的にそれに倣ったけれど、人
かげ

影なんか見えない。
﹁どこに?﹂
カッちゃんは指さした。
街灯じゃないの?﹂

﹁ビルの向こう側。道のとこにライトが見えるだろ﹂
﹁どこ?

32

ちが

こ

と

﹁違うよ、車が停まってんたよ﹂
はな

目を凝らしてみたが、亘にはよくわからない。神社の塀から離れて、さっさと歩き出し

た。﹁行ってみようよ、ベツにいいじゃん、悪いことしてんじゃないんだ﹂

だいいち、ただ車が停まってるだけかもしれないじゃんか││と思いながら、幽霊ビル

さけ

の

ほこり

の前にさしかかったそのとき、青いシートがずるりと持ちあがって、そこから人影が出て
きた。

亘はわっと叫んで飛び退いた。カランと音がして、シートが下がって地面にあたり、埃
ま

が舞いあがった。

かた

つか

﹁あいたたた﹂と、シートが言った。いや、シートの内側からそういう声が聞こえてきた
のだ。
か

﹁な、なんだ?﹂駆け寄ってきたカッちゃんが、亘の肩を捕まえた。そのときもう一度シー

た

ち

君ら何やってんだ?﹂

トが持ちあげられて、人影が顔を出した。亘たちを見あげると、
﹁何だよ││あれ?

は

とぼけたような声を出した。

ごく若い男の人だった。二十歳ぐらいだろうか。よっこらしょとシートをくぐって、道
かみ

か

かいちゅう

路まで出てきた。すると、かなり背が高いということがわかった。よれよれのTシャツに
め が ね

ジーンズ。眼鏡をかけていて、髪は短く刈っている。右手には懐中電灯。

33

のりゆき

さっきカッちゃんが﹁車が停まっている﹂と指さした方向で、大型のヴァンのスライド・

ドアを開閉するような音がした。そして声が聞こえてきた。﹁則之、どうした?﹂
か ら だ

今度は中年男性の声だ。ずんぐりと角張った人影が見えてきた。
夜回りか?

何か探してるのか?

何か埋めてるのか?

ここに火を

亘はいっぺんに何とおりものことを考えてしまい、かえって身体が動かなかった。この
どろぼう

人たちは泥棒か?
付けようとしてるのか?

じ

﹁なんだ、子供じゃないか。こんな時間に何してるんだね?﹂
お

新しい人物は、声から想像するとおりのいかつい小父さんだった。﹁則之﹂という眼鏡
にい

うでどけい

かわ

の兄ちゃんの隣まで来て、亘とカッちゃんの顔を見回した。﹁こんな時刻﹂と言ったとき

には、時間を確かめるように腕時計に目を落とした。地味な黒い革のベルトの時計だ。

がくしゅうじゅく

﹁迷子ってことはないよねえ﹂眼鏡の兄ちゃんが口元をほころばせる。﹁まさか、学習塾
からの帰り道ってわけじゃないだろ?﹂

おそ

﹁あちゃー﹂と、カッちゃんが声をあげた。辞書的に説明するなら、これは恐れ入ったこ
あせ

とを表明する小村克美流の合いの手である。

亘は焦るあまりに、考えをまとめないまま何かしゃべろうと口を開いた。すると混乱す

る心のなかで、そのときたまたまいちばん出口に近いところにいた言葉が、ポップコーン
は

が跳ねるように飛び出してきた。まあ、大人でも子供でも、失言というのは、おおよそこ

34

ういうメカニズムで発生するのである。
﹁け、け、警察を呼ぶぞ!﹂

眼鏡の兄ちゃんもいかつい小父さんも、そろってきょとんとした。そして顔を見合わせ、
次にまた申し合わせたように亘を見た。
たず

かか

気がつくと、カッちゃんもぽかんと口を開けて亘の顔を見つめていた。
いっぱく

それから、一拍おいて尋ねた。
﹁何で?﹂

たた

めいわく

とたんに、いかつい小父さんと眼鏡の兄ちゃんが、腹を抱えて笑いだした。
お や じ

﹁親父、声が大きいよ﹂

ふ

兄ちゃんはいかつい小父さんの肩をぽんぽんと叩きながら笑う。﹁近所迷惑になるよ﹂
ばっ

あや

こわ

﹁坊ちゃん、坊ちゃん﹂いかつい小父さんは、亘の方にずんぐりした腕を振りながら言う。
だいじょうぶ

﹁私らは怪しい者じゃないよ、だからそんなに怖がらんでいいよ﹂
ひじ

カッちゃんが亘の肘をぎゅっとつかんだ。﹁ホントだ、大丈夫だよ、この人たち﹂

亘はまじまじと目を見開いてカッちゃんを見た。見つめ返すカッちゃんは、だんだん笑

いをこらえる顔になってゆく。こらえきれずに笑いだす。そこで初めて、亘は、この場が

二対二ではなく、三対一になっていることに気がついた。笑う三人と、笑われる一人。顔
が熱くなった。

35

か お り

﹁あ、いけない﹂兄ちゃんが笑いを止めて、いかつい小父さんがやって来た方向へと駆け
出した。﹁香織を一人にしちゃってるな﹂

すぐに、兄ちゃんが消えた方向から、ライトブラウンの大型ヴァンがするりと出てきた。
角を曲がり、幽霊ビルの前に横付けする。

おどろ

つやつやした車体を見て、カッちゃんが﹁へえ、新車だ。でかいの!﹂と、感心する。
﹁たっかそー﹂
大松﹂

だが亘は別の発見に驚いていた。ヴアンの横っぱらに会社名が入っているのだ。
﹁株式会社

なみだ

ぬぐ

亘は目をパチパチさせた。そして、あらためていかつい小父さんの顔を見あげた。
﹁小父さんは││大松三郎さんですか?﹂
し

思わず尋ねてしまった。いかつい小父さんは、笑いすぎて涙を拭っていたが、つと口元
を引き締めて亘を見おろした。

返事は聞かなくても、その表情で、亘には、この人こそが不運な幽霊ビルのオーナーで

む す こ

ある大松三郎社長であるとわかった。そして眼鏡の兄ちゃんは、大松社長の息子さんなの
だ。

ヴァンのドアが開いた。何か機械音がして、奥からアームのようなものが延びてきた。
くるまいす

その上に、するすると車椅子が進んでくる。車椅子が停まると、アームが降りて地面に着

36

地した。

車椅子の上には、髪をポニーテールにした、ほっそりとした女の子が座っていた。アー
きゃしゃ

ムや椅子の動きにつれて、華奢な首に支えられた形のいい頭がグラグラしている。

﹁ご近所の誰かに、私のことを聞いたのかね?﹂大松社長は亘に尋ねて、自分で返事をし

た。﹁そうなんだ、私はここのビルの建て主だよ。あれは息子の則之﹂

眼鏡の兄ちゃんが車椅子を押してこちらに近づいてくる。車椅子の上の女の子は、亘た

ちの方にも、小父さんの方にも、目を向けようともせずにただ首をグラグラさせている。

ひ じ か

やさ

その目は開いてはいるけれど、ほとんど何も見ていないようだ。
むすめ

﹁で、これが娘の香織﹂
おお

あわ

かく

大松社長は近づいてきた車椅子の肘掛けを、優しくぽんと叩いた。香織の両手は、膝か
こた

なだ

き づ か

ら下を覆っている淡いピンク色の膝掛けの下に隠れていて見えないし、父親のそうした仕
草に応えようとする様子もまったくない。
え が お

﹁僕ら、怪しい者じゃないよ、本当に﹂
おび

か

大松則之が笑顔で言う。亘を宥めようとする気遣いが伝わってくる。それほどまでにさっ

きの僕は、怯えて動転しているように見えたのだ││亘は舌を噛んで、ジガイしたくなっ
た。

﹁妹を散歩に連れ出すついでに、ビルの様子を見ようと思って来たんだ。このとおりの状

37

の ら ね こ

態だから、ゴミを捨てられたり、野良猫が入り込んだり、それこそ色々あるからね﹂
﹁そうですか、スミマセンでした﹂
は

恥ずかしさのあまり、社長とも則之とも、カッちゃんとさえ視線をあわせなくていいよ

こ

づ

うに、深く深く頭をさげた。そうやって身体をふたつにたたんだまま、回れ右をして家に
に

逃げ帰りたかった。
おそ

﹁こんな遅い時間に散歩するんスか?﹂

亘の気も知らず、カッちゃんはそんな質問を発する。亘がバカやめとけよと小突く前に、
大松社長が答えた。
いや

なっとく

﹁うん⋮⋮娘はちょっと具合が悪くてね。あんまり人が大勢いるときに外へ連れ出すと、
嫌がるんだよ﹂
﹁そっか、夜なら静かですもんね﹂

カッちゃんは深く考えるふうもなく納得したけれど、亘は、大松父子がちらっと視線を
か

交わして、ちょっとつねられたような顔をするのを見てしまった。
ほこ

うれ

大松香織はきれいな女の子だった。周りの人びとが彼女を指して﹁きれい﹂

と評するとき、﹁きれい﹂という言葉の精は、本当に誇らしくて嬉しくてたまらないだろ

う。﹁アラあたしそれほどのもんじゃありませんわ﹂と照れるかもしれない。それくらい
の﹁きれい﹂だった。

38

いっさい

亘はこれまでの十一年の人生で、こんな美人の女の子には初めて会った。これほどお人

形に近い女の子にも初めて会った。しゃべらない。笑わない。外界に対して一切反応しな

い。視線はうつろ。ただまばたきをするだけの両目。目は心の窓というけれど、この窓は
人形の家の窓なのだ。

こ が ら

﹁香織は中学一年だから﹂則之が妹の方にちょっと身をかがめながら言った。﹁君らより
は姉さんだな。君らは何年生?﹂

とっさに、亘は﹁六年生﹂と答えようと思った。亘もカッちゃんも小柄な方なので、中

学生ですというウソは全然通らない。でも、一年でも大人に見せたかった。
ところがバカ正直なカッちゃんは、

ゆ

ああ、そうか。じゃあ君らもやっぱり幽霊探検隊なんだな﹂

﹁五年です。城東の﹂と、お答えになった。
﹁城東第一小学校?

いっしょ

則之が吹き出した。大松社長も笑っている。がちっとした体格の社長が腰を揺らすよう
の

それを確かめるために、子供たち

にして笑うと、彼が手を載せている香織の車椅子も一緒に揺れる。彼女の首がグラグラす
る。
﹁探検隊って││﹂
うわさ

﹁このビルに幽霊が出るって、噂になっとるんだろ?

が夜遅くにビルに近づいたり、中に入り込んだりしようとする。君らが初めてじゃないよ。

39

しか

危険だから管理をしっかりしてくれって、城東第一小学校のPTAからもお叱りを受けた
よ﹂
お や こ

﹁いつごろですか?﹂
大松父子は首をひねった。則之が答えた。﹁もう半月は前かな﹂
亘はがっかりした。とっくに先を越されていたのか。
と

﹁僕たちも、事実を調べに来たんです﹂
﹁幽霊探検隊は、写真を撮りに来てたよ。心霊写真というヤツか?﹂
則之がうなずく。﹁ポラロイド持ってね﹂
とつぜん

﹁僕らはそんな遊び気分じゃありません。ホントに幽霊の正体を確かめたいんです﹂

テレビ局に幽霊の写真持ち込んでとか、そういう話じゃ

﹁あ、そうか﹂カッちゃんが、突然声をあげてボンと両手を叩いた。﹁幽霊探検隊のヤツ
らって、六年生じゃないスか?
なかったスか?﹂
くしょう

﹁そうそう、その話﹂則之が苦笑混じりに大きくうなずいた。﹁リーダー格の││なんて
石岡健児﹂

け ん じ

名前だったかな、態度の悪いガキだったんだけど﹂
いしおか

よく知ってるね。友達かい?﹂

﹁石岡でしょ?
﹁そう!

つ

﹁全然。だけどうちのオヤジと石岡君のオヤジが釣り仲間なんス。石岡君たちがテレビの

40

心霊写真コーナーに出るとかなんとか、そんな話をオヤジさんがしてたって、オレはオヤ
ジから聞いたんでス。あれ、こんがらがってるかな、わかりまス?﹂

石岡健児とその仲間たち数名は、六学年のトラブル・メイカーである。もともと要注意

き

の生徒たちだったらしいけれど、四年生の後半ごろから問題行動が激しくなり、今では城
東第一小学校全体の持て余し者となっている。
ち こ く

さわ

そもそも学校とは何をするところかということがわかっていない。だから授業など聴か
こわ

いじ

ない。教室には好きなときに出入りする。遅刻、早退、無断欠席は当たり前。騒いで先生
ぬす

の邪魔をする。備品を盗む。壊す。同級生を虐める。お金をゆすり取る。
なげ

小学生でも、やることはほとんど非行高校生並みだ。

ただ、嘆かわしいことに昨今、この程度の問題児ならば、どの学年にも一人や二人はい
か き ね

わき

ちゅうしゃ

るものだ。石岡たちが、学年の垣根を越えて、一気に〝全国区〟になったのは、去年の夏

け

が

休みの校庭開放のときに、正門の脇に駐車してあった校長先生の自家用車を動かして校庭
はなづら

中を走り回り、遊びに来ていた下級生たちを車の鼻面で追い回して、三人に怪我をさせる
きんきゅう

という事件を引き起こしてからのことである。

このときは、翌日すぐに講堂で緊急の父母集会が開かれ、校長先生が事件の経過説明を
えんだん

すると同時に、演壇に頭をすりつけるようにして謝罪した。あんな場所に、いくら短時間
けいそつ

とはいえ、キーをつけたまま車を停めていた私が軽率でしたという謝罪である。

41

この日、校長先生は、自宅で使っている眼鏡が壊れてしまったので、校長室の机の引き

とちゅう

出しにしまってある予備の眼鏡を取りに来たのだという。用事はたったそれだけで、しか
もよお

も先を急いでいた。皮肉なことに、何か教育委員会が催す集まりに出かける途中だったの
だそうだ。

一学年上の生徒たちが引き起こした事件だったとはいえ、怪我人のなかには亘の同級生
おこ

もいたので、邦子はこの集会に出席した。そして、プリプリ怒って帰ってきた。

﹁校長先生ったら、どうしてあんなに謝るのかしら。おかしいと思わない?﹂と、母は口
とが

を尖らせたものである。

﹁何もかも車を停めておいたワタクシが悪かったのですなんて、これはそういう問題じゃ
ないわよ。勝手に乗り回した子供の方が悪いんじゃないの﹂

それでも集会では、校長先生の責任を問う意見の方が断然優勢だったのだそうだ。

﹁子供は何でもいたずらしたがるものなんだから、大人の方が気をつけなくちゃいけない

んですって。どうかしてるわ。それどころじゃないのよ、小学生なのに車を操作すること
かす

ができるなんてたいしたもんだなんて意見まで出てたんだから。まったく、世も末ね﹂
た

怪我をした三人が、ほんの擦り傷程度で済んだこともあってか、騒ぎはそれ以上拡大す
ざ

ることにはならなかった。もちろん警察沙汰にも新聞ネタにもならなかったし、校長先生

の首もつながった。足し算引き算が終わってみれば、石岡たちが増長して、ますます学校

42

な

を舐めてかかるようになっただけだった。
そういう連中のことだ。亘は不思議だった。石岡と心霊写真?
そうにない。

どうやっても結びつき

﹁その六年生たち、最初からテレビの心霊写真コーナーに出るのが目的だったのかな﹂

﹁そんな感じだったよ﹂則之が答えて、ちょっと横目になってビルの方を見た。﹁いい写

真が撮れなかったら細工すれはいいんだというようなことも言ってたしね﹂

﹁ひどいなぁ。そいつらもやっぱり、ここで大松さんたちと会ったんですよね?﹂

﹁うん。でも、そのときには子供たちたけじゃなくて、大人が二人一緒だった﹂
う

﹁あの大人たちは、テレビ局の人間だったんじゃないかねえ﹂と、大松社長が腕組みする。

﹁あり得るね﹂則之がうなずく。﹁僕らと顔をあわせたときには、バツが悪いのか保護者
みたいな態度をとってたけど、ありゃテレビ局のスタッフだな﹂

亘はカッちゃんの方を振り向いた。﹁そのへんのことは小父さんから聞いてないの?﹂
ば

カッちゃんはかぶりを振った。﹁聞いてない。でも、出演することは決まってるんだっ
い

み

て、威張ってたらしいぜ﹂
﹁その番組、観た?﹂と、則之が聞いた。

﹁観てません。ここんとこ、石岡の小父さんもうちには来ないし││あ、うち居酒屋なも

んスから﹂カッちゃんは商人笑いをした。﹁ってことはその番組、お流れになっちゃった

43

だま

のかなぁ。うちのオヤジも黙ってるし﹂
﹁それともこれから放映されるのか﹂
ふ

﹁あ、そうかもね。テレビって、案外時間かかるんでしょ?

そうスね、きっと﹂
いっしゅん

風が吹きつけてきて、青いシートがバタついた。みんな、一瞬はっとした。
﹁なんで僕らまでぎょっとするんだろ﹂

あお

笑いだしながら、則之が言った。気がつくと、みんなしてビルを仰いでいた。

﹁ここに幽霊なんか出るわけがないってことは、僕らがいちばんよく知ってるのに。親父
までそんな顔しちゃってさ﹂

ぎわ

大松社長は照れたように額をこすった。そんな仕草をすると、はえ際がだいぶ後退して
いることがよくわかった。
はる

﹁そうだよな、幽霊なんぞより、生きてる人間の方が遥かに恐ろしいんだ﹂

何気なく口にされた言葉だった。少なくとも亘の耳にはそう聞こえた。お化けを怖がる
せ り ふ

小さな子供に、分別のある大人が言って聞かせるにふさわしい台詞。
ふ

それなのに、口にした大松社長もそれを聞いた則之も、まるで恥ずかしいことでもした
かのように、てんでにさっと目を伏せた。
﹁さ、そろそろ帰ろうか﹂

則之が香織の車椅子の後ろに回り込むと、ストッパーを外した。車輪がキーと鳴った。

44

﹁そうだな。君らも乗って行きなさい。家まで送ってあげる﹂
﹁僕らは大丈夫です。すぐそこだから﹂
つ

﹁そうはいかないよ。大人として責任があるからね。さ、乗った乗った﹂

結局、亘もカッちゃんもヴァンに詰め込まれることになった。車内で亘は、車椅子ごと

にお

シートに固定されている香織のすぐ隣に座った。彼女の髪からシャンプーの匂いがした。
か

車のなかで女の子の髪の匂いを嗅ぐなんて、少なく見積もっても五年は早いような気がし

たけれど、それでどきりとするよりは、ツンと胸が痛んだ。香織は動かず、笑わず、しゃ
はだ

べらず、ただ人形のように座っている。そんな彼女の髪が、こんないい匂いをさせている
つら

なんて。彼女の顔がきれいなのも、肌がせっけんみたいに白くてすべすべなのも、手足が
すんなりと長いのも、かえって辛い。

﹁小村﹂の方が近いので、まずカッちゃんを送り、それから亘のマンションへ向かった。
﹁僕は近くで降ろしてくれればいいです﹂

運転席で大松社長が笑った。﹁車で乗り付けたりすると、大きな音がするから、夜中に
きょうしゅく

家を抜け出したことがバレるからかね?﹂

亘は正直に恐縮した。﹁うちの父、いつも帰りが遅いから、ひょっとしたらマンション
の入口のところでばったり会っちゃうかもしれないんです││﹂

﹁だけど、こっそり忍び込もうとして、今度は君が泥棒に間違えられたりしたら困るだ

45

ろ?﹂

結局、入口の手前の道路で降ろしてもらった。マンションに人影はまったく見あたらず、
てんめつ

建物ごと寝静まっていた。亘が走ってエレベーターホールまでたどり着くのを見届けて、

大松父子のヴァンはヘッドライトを一度点滅させると、すうっと立ち去った。
翌日のことである。
﹁バレなかった?﹂
一時間目の授業が終わると早々に、カッちゃんが寄ってきた。
ぬ

い ぜ ん

﹁帰ったら小母さんが起きててサ、一晩中叱られてたなんてサ?﹂
ねむ

亘は首を振った。抜き足差し足で家に帰ったら、母さんは依然としてテーブルに突っ伏
して眠っていたし、父さんはまた帰っていなかったのだ。

﹁じゃあ、全然セーフだったんじゃんか。なのに、なんでそんな眠そうな顔してんだよ﹂
﹁カッちゃんはよく眠れたの?﹂
﹁帰ったらコロリ﹂
﹁どういう神経してんだよ﹂

カッちゃんはクリクリ目を丸くした。﹁眠れないとまずかったスか?﹂

亘は香織のことを考えていたのだ。大松社長と則之の、何か隠しているような、深い事

情がありそうな態度も気になって仕方なかった。帰宅して落ち着いてから考えれば考える

46

ほど、どんどんおかしな感じが強くなってきて、それで明け方まで眠れなかったのだ。
﹁そうかなぁ。いい人たちだったじゃん﹂
﹁そりゃ、親切だったよ。だけど親切過ぎないか?﹂
﹁何で?﹂
ふ つ う

﹁あんなところでオレたちみたいな子供に出くわしたら、普通の大人は怒るよ。だけどあ
の人たちは笑うだけで、ちっとも叱ろうとしなかった﹂
﹁前に石岡たちのことがあって、慣れてたからじゃないの?﹂

あた

み や げ

﹁そんなんじゃないよ﹂亘は言って、じっと机を見つめた。新学期に与えられたこの机は、
ごくあく

ほ

おもしろ

つやつやした表面に、前の年にこれを使っていた上級生からの置き土産が刻み込まれてい

る。漢字が二文字、〝極悪〟なんでこんなものを彫るのか。これのどこが面白いのか。

よ

そ

ち

﹁大松さんたちには、きっと、幽霊を探しにくるガキなんかより、もっとずっと深刻なこ

とがあるんだよ。そっちの方に頭も心もとられてるから、夜中に出くわした他所ン家の子
よ ゆ う

供なんて、気にしてる余裕ないんだよ。どうでもいいから親切にできるんだよ﹂
ぼ う ず

しんけん

カッちゃんは、ほとんど坊主刈りに近いほど短く刈った頭をガリガリかいた。そしてひ

どく困った顔をした。こういうことは、今までにもよくあった。亘にとって真剣なことが、

ちっともカッちゃんに伝わらないのだ。すると亘はひどくイライラしてカッちゃんに当た

り散らしたくなるのだが、そういうときの自分の顔つきが、〝小村さんのところは水商売

47

だから〟と言い捨てるときの母邦子の顔とそっくりだ││という事実には、自分ではまっ
たく気がついていなかった。
つぶや

﹁それってあの、香織って子のことかなぁ﹂

カッちゃんはぼそっと呟いた。きっと間違ってるに違いないから、亘に聞こえない方が

いいな、でももしかして万にひとつあっていたら、そのときだけは聞こえてほしいな││
というぐらいの音量た。
そしてそれはあたっていた。
﹁決まってるじゃんか。そうだよ。それ以外にあるかよ﹂

カッちゃんがあてたので、亘はますます腹が立った。こっちが言うセリフを、なんで先
にあてちゃうんだよ。

きら

﹁あの子、病気かな﹂カッちゃんはますます気弱に呟いた。﹁顔とか見ただけじゃ、元気
そうなのにな。なんで全然口きかなかったんだろう﹂
ひ と ご

だいいち、香織は

亘は考えていた。あの〝散歩〟だって、すごくヘンだ。人混みが嫌いだったら、公園と
か水辺とかへ行けはいい。どうして夜中に連れ出さなきゃならない?
具体的にどこがどう悪いのだろう。

は ん ぱ

ひょっとしたら、あの子があんなふうになってしまったことと、中途半端に立ち往生し
かか

ている幽霊ビルとのあいだに、何か関わりがあるんじゃないだろうか。だからこそ、大松

48

社長はひっそりと目立たないように深夜を選んで、わざわざ香織をあそこまで連れてきて
いるのじゃないのか。

亘が黙り込んでいるので、カッちゃんはますます困り、もじもじした。

ば

そろ

﹁あのさ、石岡たちのテレビのこと、今朝オヤジに聞いてみたんだ。あれから石岡の親父
さんが何か言ってないかって﹂
お

しょくたく

商売柄、小村の小父さんも小母さんも夜が遅いが、朝食だけは家族揃って食べるのが習

かな

慣だ。一日に一度は、家族みんなで食卓を囲みましょう。そういう標語みたいなことが、
うるわ

小村の人たちはみんな大好きだ。一日一善とか、仲良きことは美しき哉とか。

﹁わからないって。石岡の親父さん、ずっと来てないっていうんだ。だからテレビのこと
はよくわかんなかったよ﹂
﹁ふうん﹂と、亘は鼻先で返事した。

﹁あのビルの幽霊のことは、もういいよな?﹂カッちゃんはヘラヘラ言った。﹁石岡たち
おんな

と同じことするなんて、バカっぽいもんな﹂
もど

亘は黙っていた。カッちゃんはまた頭をぼりぼりかいて、じゃそういうことでどうもネ
とかなんとか言って席へ戻っていった。ベルが鳴り始めた。

亘はカッちゃんの後ろ姿を見た。あの頭は、小村の小父さんがバリカンで仕上げるのだ

そうだが、たいていの場合、ちょこっとトラになっている。トラ刈りの部分は毎回少しず

49

つ場所を変え、形も変わる。それでもカッちゃんは文句を言ったことがない。
香織の髪のシャンプーの匂いを思い出した。
おど

小村の小父さんが二週間に一度、なんだかんだ話したり笑ったり、動くと耳まで刈っち
くし

まうぞと脅しながらカッちゃんの髪を刈るように、無表情な香織に話しかけながら、笑い
かわ

かけながら、彼女の髪をシャンプーして、乾かして、櫛でとかして、ポニーテールにして

あげる人がいるのだ。たぶんお母さんだろう。きっとすごく悲しいだろう。香織が返事を

してくれないことが。生きていながら死んだようになっていることが。
いったい、香織に何があったんだろう?

大松家の三人は、亘にとって、今までと同じような想像力の働かせ方をしていては、けっ

して理解することのできない暮らしをしている人びとだった。亘の家はサラリーマン家庭

だけれど、店をやっているカッちゃんの家の暮らしぶりを想像することはできる。隣の席

の女の子は両親が二人とも教師だ。教師の家というのも想像することができる。同じよう
り こ ん

にして、父親が消防士だという家庭のことも、離婚して母親だけだという家庭も、父親が
ふ に ん

海外に単身赴任しているという家庭も、想像することはできる。たとえその想像が実像か

ら遠くかけ離れていようとも、亘の側から﹁あんなもんかな、こんな具合かな﹂と想像す
ることさえできれば安心だ。

こ

だが、大松家の人びとはそうではない。家のなかに、あんな状態に引き籠もってしまっ

50

か わ い

みんな

らちがい

た可愛い女の子がいて、彼女をあんなふうにしてしまった何かしらの原因があって、それ

を皆で抱え込んでいる││そんな暮らし、そんな家庭は、亘の想像の埒外にあった。だい
ざ せ つ

たいこんな具合だろうと、わかったような気分になることさえできない。子供は大人にな

るまでのあいだに、様々な形の挫折を経験するけれど、その挫折の大半は、今まで自分が
みが

教えられて磨いてきた価値観や想像力では手に負えないものにぶつかったことによるもの
ふ

ひ

だ││という成長の公式に、ここで亘は初めて触れているのだが、もちろん自分ではそれ

に気がついていなかった。だからイライラするのだし、だから興味を惹かれるのだという
こともわかっていなかった。

せんたく

その日は授業にも全然身が入らなかった。家に帰ると、邦子がリビングいっぱいに洗濯
もの

物を広げてアイロンをかけていた。機械的に手を動かしてYシャツやズボンにアイロンを
く ぎ づ

わざ

す

あてながら、目はテレビに釘付けだ。それでいて折り目が曲がったりしない。〝お母さん
の曲芸〟と、父の明が称するところの技だ。
ま

いつもなら﹁ただいま﹂もそこそこに、真っ直ぐ部屋に入って、塾へ行くまでの時間を

その人の家に、

テレビを観たりゲームをしたりして過ごすのだが、亘は足を止めて、母に話しかけた。
﹁ねえ、三橋神社の隣の幽霊ビルのことで、最近何か聞いてない?﹂
邦子はうわの空で生返事をした。﹁え?﹂

﹁あの建てかけのビル、大松さんていう社長さんが建て主なんでしょ?

51

えり

中学生の女の子がいるんだって﹂

邦子はYシャツの襟をばんばんと叩きながら、﹁あらそう﹂と言った。一瞬だけテレビ

かぎ

画面から目を離し、手元を見て、くっついていた糸くずをつまんで捨てる。それからまた
テレビの方に目を戻す。
﹁お母さんの友達の不動産屋の奥さんなら、何か知ってるかな?﹂
ふ

邦子は返事をせずにテレビを観ている。サスペンスドラマのようだ。鍵のかかっていな

いドアを開けてヒロインがある部屋に足を踏み入れる。そこに死体が転がっている。キャー

く

何が何だって?﹂

と叫んで、コマーシャルだ。そこでやっと邦子が亘の方を見た。
﹁何?

自転車で行く

亘は質問を繰り返そうとしたが、急に嫌になってしまった。﹁何でもない﹂と、足元に
向かって言った。

﹁ヘンな子ね。冷蔵庫にチーズケーキが入ってるわよ。今日は塾でしょ?

のはやめなさいね。今日はあのクローバー橋のところで工事してるから。手を洗った?

うがい薬が切れてたら、洗面台の下の引き出しに、新しいのが入ってるから﹂

母さんは、亘が朝学校へ行って、午後家に帰ってきたときには山のタヌキに変身してい

たとしても、ちゃんとただいまと言いさえすれば気にしないんじゃないかと思うのは、こ

んなときである。さっさとチーズケーキをもらって、部屋に入ろう││と立ちあがったと

52

き、電話が鳴った。
﹁ちょっと、出て出て﹂
しび

アイロン台の前に座り込んでいる邦子は、すぐには立ちあがれない。今年に入って二キ

ロほど太ったら、正座するとすくに足が痺れるようになって困ったわと、つい最近も電話
か べ か

で誰かとそんなおしゃべりをしていた。
すみ

亘はリビングの隅の壁掛け電話機に近づき、受話器を取りあげた。﹁はい、三谷です﹂
三谷ですけど﹂

しーんとしていた。
﹁もしもし?

また、しーんとしている。もう一度もしもしと呼ひかけて、返事がないのを確かめると、
亘は受話器を置いた。
﹁間違い電話?﹂と、邦子が訊いた。
﹁そうみたい﹂

﹁最近、多いのよ。こっちか出ると、黙ってるの。そのうち切れちゃうの﹂

電話のそばに来たついでに、カッちゃんにかけて、今日はキゲン悪くてごめん、帰りも

さっさと一人で帰っちゃってさらにごめんと言おうかと思ったけれど、結局やめた。

そのとき、また電話が鳴った。最初のベルが鳴り終えないうちに、亘は受話器を取った。
﹁もしもし?﹂

53

き げ ん ち

ど

な

そ こ ね

また、しーんとしている。それでなくても今日はご機嫌値が底値の亘は、瞬間的にブチッ
と切れた。受話器を顔の前に持ってくると、大きな声で怒鳴った。
﹁用がなきゃかけてくんな、バカヤロー!﹂

バンと受話器を戻すと、邦子が目を見開いてこちらを見ていた。心配そうというよりは、
面白がっているような目の色だった。

その日は塾でも勉強に集中できなくて、亘にしてはめったにないことなのだが、二時間

よみがえ

のあいだに三度も先生に注意された。三度目のときには、﹁具合でも悪いのか?﹂と尋ね
られてしまった。
いと

きゃしゃ

亘自身にも、よくわからないのだった。気がつくと昨夜の出来事を頭のなかに蘇らせて

いる。大松社長が愛おしげに車椅子の肘掛けをぽんと叩くと、香織の華奢な首がグラグラ
ほお

する。幽霊ビルを不格好に包み込むシートの色を映して、彼女の頬はまるでロウみたいに

ビデオデッキだったら間違い

青白く見える。そして彼女の髪からは清潔なシャンプーの匂いがする。同じ光景ばかりが
心のなかでグルグル再生されるのは、病気なのだろうか?

なく修理が必要なところだけれど、人間の場合はどうなのだろう。

ぼんやりとしたままの帰り道、また幽霊ビルに寄ってみようかと思った。塾は学校とは

一八〇度逆の方向にあるので、遠回りどころか家の前を通り過ぎてしまうことになる。そ
げんかん

れでも寄ってみようかと思った。マンションの共同玄関が見えるところまで帰ってきたと

54

かばん

さ

ころを、思いがけなく呼び止められたりしなければ、きっとそうしていただろう。
﹁お帰り、今日は塾か?﹂
がさ

日をあげると、ほんの二、三メートル先に明が立っていた。右手に鞄を提げ、左手には

折りたたみ傘を持っている。そういえば今日、都心の方ではにわか雨が降ったらしい。

﹁お帰りなさい﹂と、亘も言って、父に近づいていった。明は亘が追いつくのを待たずに、
ゆっくりと共同玄関の方へ続くスロープを歩き始めた。
﹁お父さん、今日は早かったんだね﹂

せわ

亘の左手首のデシタル腕時計は、午後八時四十三分を示している。忙しなくまばたきし
み や げ

ながら一秒の百分の一から時を表示してくれるこの時計は、昨年の秋に明が仕事でロサン

ゼルスへ行ったときに買ってきてくれたお土産だった。向こうではとても人気のあるバス

ケットボール・チームのロゴが入っている。実は亘は、バスケットボールにはまったく興

味がないので、この時計はあまり嬉しくなかった。それよりもワーナーの出しているオリ

ジナルグッズがほしかった。だから普段はほとんどこの腕時計を使わない。今夜はラッキー

だった。父さんはきっと、亘がこの時計を気に入っていると思ってくれるだろう。
﹁学校はどうだ﹂

﹁うん﹂と、亘は答えた。それだけだった。この問いと答は、ここ一年ほどのあいだに、

父子のあいたで完全に定番となってしまったやりとりだった。亘が﹁うん﹂の後に言葉を

55

続けても、父は黙って聞いているだけだろうし、明が﹁どうだ﹂の後に何か具体的なこと

を聞いても、亘は﹁うん﹂としか答えないだろう。そう、だろうだ。実際には、まだそう
いうことは一度もないから。

三谷明は、もともとあまりおしゃべりな人ではない。一方、邦子はよくしゃべる。亘が
か

聞いている限りでは、一対十くらいの割合で邦子の方が断然優勢だ。日常生活のなかでは、
た

か じ と

発言量の多寡は、そのままその発言者の意見の威力とイコールで結ばれる。要するに、

〝うるさく言った方が勝ち〟ってことだ。つまり三谷家は、邦子の意向に添って舵取りさ
れることになるわけだ。
か も く

ば

あ

りく

ただ、事が﹁日常﹂ではなく、﹁日常の土台﹂に関わる問題となると、様相は一変する。

こうにゅう

そして日ごろは寡黙な三谷明が、千葉のお祖母ちゃんの言うところの﹁腹が立つはどの理
つ

屈っぽさ﹂を発揮するのも、そういう局面である。今のマンションを購入する時がそうだっ

た。邦子が亘を私立の小学校へ入れたがったときもそうだった。亘の学習塾を決めるとき
か

もそうだったし、車を買い換えるときはいつもそうだ。明は目の前の問題について、たく
あいまい

さんの下調べをして、よく考えて、いちばん筋道通っていると判断した結論を選ぶ。そこ

には曖昧な﹁感じ﹂とか﹁そうした方がよさそう﹂とか﹁みんなそうしてる﹂とか﹁これ

が世間並みだから﹂などといういい加減な物差しは通用しないのである。対象が車ならば
か ん き ょ う

燃費や安全性、マンションならば施工業者や居住環境と、データできちんと提示できるも

56

じ

い

なんぴと

のを示さないことには、そういう時の三谷明とは、何人も議論することはかなわない。
な

ちょうど十年前、三谷のお祖父ちゃん││つまり明の父親であり、千葉のお祖母ちゃん
しんせき

の連れ合いであり、亘のお祖父ちゃんである人が亡くなった時の、明のふるまいときたら、

今でも親戚じゅうの語りぐさになっている。そのころはまだ赤ん坊だった亘でさえ、親族

き お く

が集まるたびにその話を聞かされるので、自分で見聞きしたことのようにしっかりと記憶
そうしき

ぎ し き

してしまったほどだ。

葬式に限らず、儀式のたぐいには、由来も理由もはっきりしていないけれど﹁とりあえ

ていこう

ずこういう場合にはこうする﹂というしきたりが付き物だ。明はこれに片っ端から抵抗し
かいみょう

つ

や

た。なぜ戒名にランクがあるのか。その上下が納める金額で左右されるのはなぜか。亡父

と仲の悪かった親戚が、親戚だというだけで通夜の席で大きな顔をするのは納得がいかな
み も の

も し ゅ

い等々││それはそれは見物だったらしい。

お祖父ちゃんの葬式だから、喪主は当然お祖母ちゃんなわけだが、そのお祖母ちゃんが
とうとう音をあげて、
ひつぎ

た

﹁明、いい加減で折れて、静かにお葬式をあげさせておくれよ﹂と泣きを入れなければ、

お祖父ちゃんの棺は一週間経っても千葉の家から一歩も出られなかっただろう││という。

親戚の人たちも、﹁明さんて、頭はいいけど静かでおとなしい人だと思ってたのに、言
にんしき

い出したらきかないのねえ﹂と、いっぺんで認識をあらためたそうである。

57

﹁母さんは、そんなこととっくに承知の上だったから、面白かったわよ﹂と、邦子は笑っ
て話してくれる。
こわ

三谷明は、怖い父親ではない。何もわからない赤ん坊や、うっかりすると危険なことを

しかねない幼児のころは別として、物心ついてからは、亘は一度だって怒鳴られたことは

ないし、ぶたれたこともない。今までのところは、父の最終兵器である﹁理詰めの論争﹂
いそが

ふ ゆ か

を持ち出されたこともない。忙しくてそんなことをしていられない││という側面は、も
ちろんあるのだけれど。
い ご こ ち

亘には、父さんのことが、今ひとつよくわからない。ただその﹁わからない﹂は、不愉
い

快で居心地の悪い﹁わからない﹂ではない。父さんというドアは開いていないし、これか

らもめったなことで開きはしないけれど、その向こう側にあるものは、亘にとって大切な
ばくぜん

もので、父さんもまたそれを大事に考えてくれているのだと漠然と感じる││とでも言え
はいいだろうか。

亘は、けっこう父さんが好きだったりする。自分のことをしゃべりたがる人ばかりか大
としごろ

勢いる││身の周りにもテレビのなかにも学校にも││毎日のなかで、黙って忙しそうに

している父さんは、かなりカッコいいと思うこともある。この年頃の子供が実はみんなそ
いだ

うであるように、彼が父親に対して抱いているイメージは、つまるところ、母親の三谷邦

子が夫である三谷明に対して抱いているイメージを、ほとんどそのまま映しているものな

58

のだった。

邦子は、夫が黙ってうなずきながら聞いているだけであっても、面白いこと腹の立った
しょうだく

しん

ことちょっと相談のあること事後承諾だけど決めちゃったのよというようなことを、次か

ら次へと楽しげに話す。ちょっと前までの、芯から﹁お子さま﹂であったころの亘もそう
ゆ

だった。でも今の亘は、アルデンテに茹でたスパゲティの芯みたいなものではあるけれど、
すす

﹁お子さま﹂にはない一個の人間としての芯ができつつあって、その芯は亘に、﹁うん﹂

だけであとは黙っていることを勧めるのだ。それが男と女の違いなのかもしれない。ある

わざ

いは、邦子のなかにはないが、亘のなかにある明の遺伝子のなせる業なのかもしれない。

それでも今夜は、﹁うん﹂の後、二人でエレベーターホールへ歩いてゆくあいだに、少

みんなが一生懸命信じていたり、面白がったりしてること

けんめい

しばかり心が揺れた。父さんに話してみたくなったのだ││いろんなことを。
幽霊ってホントにいるの?

そうしないと嫌

間違ったことは間違

でも、だからって、三谷なんか大嫌い
僕も父さんみたいになれる?

父さんはそういうの嫌なんでしょ?

には、たとえそれがデタラメなことでも、調子を合わせた方がいいの?
われるの?
ののし

だって罵られたことはないでしょ?

いだって言っても、人とケンカしないでいるにはどうしたらいいの?

ひめ

そしてあの││何ひとつしゃべらない、外界から切り離されたみたいな、大松香織のこ
とう

と。ねえ父さん、まるで、テレビゲームのなかに出てくる塔のなかに閉じこめられたお姫

59
さま

様みたいな女の子に会ったんだ。ホントにそういう女の子がいたんだ。僕、ちょっとその

女の子のことが気になるんだ。どうしたんだろうって、気になるんだ。そういうことって、
父さんにもあった?

たくさんの言葉が頭のなかで渦巻いて、でも結局出口が見つからずに、家まで着いてし
まった。

久しぶりに三人揃っての夕食で、邦子は忙しくいろいろなことを明に報告したり、相談
い

したり、様子を聞いたり、とにかくにぎやかだった。母さんはとても楽しそうで、その気
お

ちゃわん

分が亘にも移って、夕食は美味しかった。
はし

食事が済んで、亘が自分の皿と箸と茶碗を台所へ運んで行こうと立ちあがったとき、電
話が鳴った。急いで受話器を取る。
しーんとしている。
﹁また?﹂と、邦子が箸を止めて尋ねる。
﹁また﹂と答えて、亘は受話器を置いた。
まゆ

﹁このごろ多いの、無言電話﹂邦子が眉をひそめた。﹁気味悪いわ﹂
明はちょっと首をよじって電話の方を見た。
﹁このぐらいの時間にかかってくるのか?﹂
﹁いつもは昼間だけど││昨日もそうだったよね、亘﹂

60

﹁うん。続けて二回﹂
﹁亘も何度か取ったことあるのか?﹂
﹁ううん、僕は昨日が初めてだった﹂

明は手にしていた茶碗をテーブルに戻して、また電話の方を振り返った。﹁留守電にし
ておいたらいいじゃないか﹂

めんどう

邦子が笑った。﹁いいわよ、エッチ電話じゃないしね。それに、千葉のお祖母ちゃんか

ら電話かかってきたとき、留守電にしておいたりしたら、あとが面倒だもの﹂
れいぞうこ

それもそうだなと、明も少し笑った。亘は冷蔵庫からアイスクリームを出して、水切り

からスプーンを取り、テーブルに戻ろうとして、そこでまた電話が鳴った。
﹁僕が出る!﹂
い か く

叫んで、亘は受話器に飛びついた。昨日と同じように、一発怒鳴ってやろうと思ったの

だ。だから最初から威嚇的に﹁もしもし!﹂と、できるだけ太い声を出した。

さとるおじ

えらく気合い入ってるなあ﹂
ひょうし

すると、底抜けに陽気で、本物の野太い声が返ってきた。
﹁お、亘かぁ?

ほかに間違えようがない。千葉の悟伯父さんだ。亘は拍子抜けした。
﹁なぁんだ、ルウ伯父さんか﹂
あいさつ

﹁なんだとはご挨拶だぜ。元気でやってるか?﹂

61

﹁うん、元気だよ﹂
き ょ ひ

﹁おまえはちゃんと学校行ってる子供なんだろうなぁ。登校拒否とかしてねえか﹂
﹁してない、してない﹂
﹁イジメられて金ゆすられてねえか﹂

え

ど

ろうやしき

﹁ないない﹂亘は吹き出してしまった。﹁伯父さん、よくないニュースばっかり見過きて
ない?﹂

﹁そうかぁ。今時の学校は、江戸時代の牢屋敷みたいなんじゃねえのか﹂
﹁なんかよくわかんないけど、全然違うよ﹂

初恋ぐらいしろよ。ドキッとなるような女の子がいないのか、

はつこい

﹁そっか。やっぱテレビなんてあてにならないってことだな。それでおまえガールフレン
ドはできたか?﹂
﹁できるわけないよ﹂
﹁遅いなあ。五年生だろ?
周りに﹂
あざ

悟伯父さんは、近ごろは事あるごとにこの話題で亘をからかうので、慣れっこの台詞だっ

た。それなのに、今夜はその言葉が鮮やかに耳を打った。亘は自分の顔が赤くなってしまっ
たのではないかとうろたえて赤くなりそうになった。

〝ドキッとなるような女の子〟というところで、目の奥に、一瞬だけれど消しようがない

62

ひとみ

ほどはっきりと、大松香織の顔が浮かんでしまったのだ。白い頬、大きな瞳。

どうよう

﹁い、いないよ﹂両親のいるテーブルに背を向けて、あわてて言った。﹁うちのクラスの
女子なんか、全然かわいくないんだからさ﹂

めずら

﹁フーン、そりゃ残念だな﹂悟伯父さんは、亘の動揺に、まったく気づかない。﹁ところ
で、お母さんいるか?﹂
き せ い

﹁いるけど、今日はお父さんも帰ってるよ﹂

電話の向こうで奇声があがった。﹁世にも珍しいことがあるもんだなぁ。じゃあお父さ
んを出してくれや﹂

ルウ伯父さんだよと言い終えないうちに、すぐ後ろに来ていた明が、亘の手から受話器

を受け取った。そして、﹁ちゃんと悟伯父さんと呼びなさい﹂と、珍しくびしりと注意を
した。

つ

三谷悟は、三谷明の五歳年上の兄である。十六歳の秋に地元の高校を中退して家業を継

ぎ、今もそのまま継いでいる。大学から東京に出てしまった明とは対照的に、房総から一

歩だって離れる気のない人だ。海と船と海釣りが死ぬほど好きなのである。
きしょう

二人きりの兄弟だけれど、気性は一八〇度違っている。悟伯父さんはよくしゃべるし、
いっかん

しゃべることの筋道はほとんどの場合、まったく一貫していない。理屈などというものと

63

は遠い場所で生活しているというか、そもそもそんなものの存在を知らないみたいだ。
おもなが

父さんと悟伯父さんは、体格も顔つきもまったく似ていない。中背で細身の父さんに、
ようちえん

ふうぼう

長身でがっちりタイプの伯父さん。面長の父さんに、えらの張ったいかつい顔の伯父さん。

今年四十三歳の伯父さんは、幼稚園のときから今と同じような風貌だったそうで、最近に
ねんれい

なってやっとこさ、年齢が外見に追いついたのだそうである。
わざわ

ひそ

そういうもろもろが災いしているのか、はたまた本人のワガママか、悟伯父さんはずっ

と独身である。千葉のお祖母ちゃんは密かにこのことで頭を痛めているらしいけれど、本
の ん き

人はいたって呑気なものだ。結婚なんて面倒でよお、と言っている。でも子供は嫌いじゃ
お

じ

ないらしい。亘にもよくかまってくれるし、ナイショでお小遣いもくれたりする。

亘には母方にも伯父さんと叔父さんが一人ずついるので、こんがらからないように呼び

分けねばならない。母方の方はそれぞれ、住んでいる場所で﹁小田原の伯父さん﹂﹁板橋

の叔父さん﹂と呼んでいるが、なぜか悟伯父さんだけは﹁千葉の伯父さん﹂にはならなかっ

た。ルウ伯父さんという呼び方は、亘がまだうんと幼くて、言葉がおぼつかないころに使っ

ていたものだが、今でもついつい口に出すことが多くて、そのたびにたしなめられてしま
うのだ。
こ

ろ

悟伯父さんの電話の用件は、﹁法事﹂とやらの込み入った事柄のようだった。切る前に
ふ

また受話器を回してもらおうと待っていた亘は、お風呂に入りなさいとリビングを追い出

64

されてしまった。

母さんはよく、お風呂で一人になるといろいろ考え事をしてしまう、という。大人には、
さそ

ざい

かお

めったに一人きりになる時間などないからだそうだ。でも、それは子供だって同じだ。お

風呂は物思いを誘う場所なのだ。そして今夜、入浴剤の香りと共に亘の頭のなかに浮かん

できたのは、やっぱり大松香織の顔だった。塔のなかの静かな姫君。閉じこめられている
のか、閉じ篭もっているのか。
││初恋ぐらいしろよ、か。

ルウ伯父さんの言葉を、胸の内で繰り返して、亘はまたどきりとした。お湯がちゃぷん
と波立った。

65

3

転校生

ちゅうとはんぱ

彼がやって来たのは、春の連休に入る直前のことだった。中途半端な時期の転校生だと、
ささや

クラスの女の子たちが囁いていたものだ。
﹁カッコいいんだって﹂
﹁成績いいんだって﹂
﹁英語ペラペラなんだってよ﹂
﹁お父さんの仕事の関係で、ずっと外国にいたんだって﹂

だって、だってで盛りあがるおしゃべりが、そこここで聞こえていたものだ。でも、亘
となり

にとっては、ピンと耳をそばだてたくなるニュースではなかった。

もちろん転校生は気になる存在だけれど、隣のクラスのことだ。知らなければ知らない
は

で済んでしまう。それに転校生というものは、そのラベルが剥がれてただの同級生になる

わ

までのあいだは、どんなダイコンでもカボチャでも、三割増しくらいには良く見えるもの
だ。
おく

亘の暮らすこの町は、不景気の最中だというのに遅れてきたマンション建設ブームに沸
さか

いており、人の出入りも盛んだ。だから、亘も五年生になるまでのあいだに、四人の転校

66

やつ

むか

じゅうぶん

いんせき

生を迎えた。それだけ見れば充分な経験になる。転校生が本当にラベルどおりの〝スゴイ
さわ

奴〟である確率は、道を歩いていて空から落ちてきた隕石に頭を打たれて死ぬ確率と、どっ
ゆうれい

うわさ

こいどっこいというところだ。騒ぐ必要なんか、全然ない。そして、そうこうしているう

ちに、幽霊ビルの噂の方がずっとずっと気になりだした││という具合だったから、実を
ちが

言えば隣のクラスの転校生の名前さえ、はっきりとは覚えていなかった。
と

だから、最初は話がすれ違って困った。
見せてもらったの?﹂

﹁アシカワが心霊写真を撮ったんだってさ!﹂
﹁見たの?

﹁あたしは見てないんだけど、でもすっごいはっきり写ってるんだってよ!﹂

大松家の人びとと出会ってから、ちょうど一週間後のことだった。朝、あくびをかみ殺

しながら教室へ入ってゆくと、教室の後ろの出入口のところで固まっていた五、六人のク

ラスメイトたちが、てんでにそんなことを言って大騒ぎをしていたのだ。あれ以来、いつ

も香織のことが心のどこかにひっかかっている亘にとって、幽霊ビルの﹁ゆ﹂の字でも聞

ホントにそんな写真撮ったのかよ?﹂亘は話の輪に飛び込んだ。﹁いつ?﹂

き捨てならなかった。
﹁ホント?
お と と い

﹁一昨日の午後だってさ﹂
﹁午後って⋮⋮じゃ、昼間なの?﹂

67

まちなか

さ

﹁図工でスケッチしに行ったんだもん﹂

図工の授業に、街中に咲いている花をスケッチしましょうという課題があるのだ。
か

﹁三橋神社のツツジ描きに行ってさ﹂
﹁それ⋮⋮うちのクラスじゃないじゃん﹂
﹁だからアシカワが撮ったんだって﹂

そこで亘はようやく、話題の主が隣のクラスの転校生だと知ったのだった。
﹁アシカワっていうんだっけ﹂
﹁そ。ミツル・アシカワ。なにしろ外国育ち﹂
男子生徒の一人が気取ってそう言うと、女子たちが笑い転げた。

﹁バッカみたい。名前と名字をひっくり返せば外国人になるなんてもんじゃないよ﹂

うった

亘には、転校生のプロフィールなどどうでもいい。問題は、そいつが撮ったという心霊
写真の方だ。
﹁その写真、見せてもらえるかな?﹂
あしかわ

みんな口々にかしましく、自分たちも見たいのだと訴えた。
だれ

﹁だけど芦川君、こんなもんで大騒ぎするのは良くないって、うちに持って帰っちゃった
すみ

んだって。それきり、誰にも見せてないんだってさ﹂
しゅんかん

瞬間、亘は心の隅で喜んだ。アシカワという転校生は、ひょっとすると僕と似たような

68

も

考え方の持ち主なのかもしれない。こんなもんで大騒ぎするのは良くない、か。うん、い

一緒にスケッチに行ったヤツらは見

いっしょ

いじゃないか、そのセリフ。僕も、この前クラスの女子と揉めたとき、そういう言い方を
すれは良かったのかもしれないな。
﹁隣のクラスには、誰か実物を見たヤツはいるの?
たんだろ?﹂

みやはら ゆ う た ろ う

クラスメイトたちは何人か隣のクラスの生徒の名前を挙げた。スケッチに行ったメンバー

は、男子三人女子二人の五人組で、そのなかには、隣のクラス委員の宮原柘太郎も入って
いた。彼なら亘の友達だ。

﹁写真撮ったカメラは、宮原君が持って来たんだって﹂と、大事な情報を付け加えた。

﹁うちへ帰ってから、スケッチの細かいところを写真見ながら描けるようにさ﹂
けいだい

ポラロイドカメラだったそうである。宮原の提案で、一人一枚ずつ、自分がスケッチし

ようと決めた構図をそのまま写真に撮った。芦川は神社の境内から、境内を囲む木立と、

隣の幽霊ビルを仰ぐような感じのショットを撮ったのだそうだ。するとそこに、人間の顔
のようなものが写っていた││というわけである。

こわ

﹁その場で写真にヘンなものが写ってることがわかって、もう大騒ぎになっちゃったんだっ
おもしろ

て。最初は面白がってたんだけど、そのうち女の子が泣きだしちゃって、みんな怖くなっ
て帰ってきちゃったんだってさ。スケッチはどうしたんだろうね?﹂

69

さっそく

まどぎわ

それだけ聞けば用は足りた。亘は早速、次の休み時間に隣のクラスへ出かけて行った。
ろ う か

廊下に面した窓からなかをのぞきこむと、窓際のいちばん後ろの席について、前の席の女

ゆうし

子生徒と、隣の席の男子生徒と、盛んに笑いなから何か話をしている宮原の横顔が見えた。
け い じ

ぎ し き

宮原祐太郎は学年一の優等生である。城東第一小学校ではまだ、毎学期に一度、成績優
ゅうしゃ

秀者の名前を廊下に掲示するなどという儀式を行っていないけれど、それでも頭のいい子
びんかん

のことは、みんな自然にそれと悟るものだ。その感度は、ひょっとしたら先生のそれより
も敏感で精度が高いかもしれない。

ちょっと以前のことだけれど、父の三谷明が何かの折に、母の邦子を相手に学校論みた

いなことを話しているのを、亘は聞きかじったことがある。明はずいぶんと難しい言い回

しをしていたので、演説の大半は亘にはよくわからないものだった。でも、ひとつだけ、
つ

ぎ せ い

理解可能な上に、ピカリと光って心に残った言葉があった。

﹁本当に優秀な人間は、目を吊りあげてほかのすべてを犠牲にして勉強しなくても優秀な
んだ。それが能力ってもんなんだから﹂

の ん き

父のこの言葉が耳に入ったとき、亘はごく自然に宮原柘太郎の顔を思い浮かべた。そう

だよなぁ││と思った。宮原はいつ見てもすごく明るくて、楽しそうで、呑気にしている。

ようちえん

それでいてすっごく勉強はできるし、リレーの選手には必ず選ばれるし、幼稚園の時から

み

通っているスイミングスクールでも代表メンバーだそうだし、テレビも観ているしゲーム

70

くわ

が ん ば

ほ

にも詳しい。無理をして優等生を〝張っている〟ようには、まったく見えない。彼は生ま

れついての優等生なのだ。だが先生たちは彼を評して﹁努力家﹂﹁頑張り屋﹂だと褒める。

ヘンなの││と、亘はいつも感じていた。宮原はいいヤツだけど、努力家じゃないよ。な
んで先生たちにはわかんないんだろう?
そっちょく

めんどう

亘がもう少し大人になれは、先生たちだってわかっているのだと、誰よりもよくわかっ
だま

ているのだと、でもそれを率直に口に出すと、いろいろと面倒なことばかり招来してしま

うので黙っているしかないのだということが理解できるだろう。だって、人間には生まれ

ついての能力差があるということと、努力することの大切さ尊さ楽しさとは、まったく別

の問題だが、しばしば混同される問題でもある、そこに人生の面白さと難しさがある││
なんて、小学生相手にどう説明すればいい?

宮原は話に夢中のようだし、教室のなかは騒がしく、ちょっと声をかけたぐらいでは呼

び出せそうになかった。見回しても、亘が気軽に名前を呼べそうな顔も見あたらない。
すいそう

小学校のなかでは、クラスが違うということは水槽が違うということで、めったなこと

では交流ができない。五年生になると、音楽や保健体育など、いくつかの科目で二クラス

合同の授業や男女別のカリキュラムが組まれることがあって、ようやく行き来が始まるの

じゅく

だけれど、それも限られた時間内のことだ。亘が宮原をよく知っているのは、塾で同じコー
ざいせき

スに在籍しているからである。

71

い

く

じ

教室の後ろの出入口のところまで行き、ウロウロしてみたけれど、宮原は話に夢中になっ
ふ

ていて、全然気がついてくれない。亘は、こういう局面では意気地なしっぽい部分が前面
しら

かね

ふさ

に出てしまうタイプなので、ずかずかと隣の教室に踏み込んでゆくことができない。その
うちに休み時間の終わりを報せる鐘が鳴り始めた。
││しょうがないや、塾で話せるまで待とうかな。
きびす

亘は急いで踵を返した。すると、いきなり何か真っ黒なものが立ち塞がり、どんとぶつ
かった。
﹁あイタ!﹂
くさ

にお

思わず声が出た。亘がぶつかった真っ黒なものは音も声もたてず、ただふわりと、ほん
のわずかだけれど薬臭いような匂いがした。

目の前に、黒いトレーナーを着た少年が立っていた。まばたきするほどわずかな時間、

さっかく

亘は、鏡を見ているのかと思った。それほどに、少年の背格好が、亘自身とよく似ていた
のた。
﹁あ、ごめん﹂

すご

反射的にそう言うと、それで錯覚も消えた。黒いトレーナーの上にのっかっている顔は、
亘とは似ても似つかなかった。
くや

悔しいけれど、それはそれは凄い美少年だったのだから。

72

くんしょう

き

せ り ふ

亘はぽかんと口を開けて、少年の顔を見つめた。亘もまた、面白いヤツと呼ばれること

を最大の勲章と考え、だからどんなときでも頭の片隅ではギャグや気の利いた台詞を考え

ずにはいられないティーンエイジャーの予備軍の一人であって、だからその本能に忠実に、

ミリセカンドのそのまた千分の一単位のスピードで思考した。今月ってボク的には全国美

少年美少女月間だな、だけどこの台詞ってイマイチ面白くないから口には出すのはやめた

むなもと

││というところまで考えたところで、相手の黒いトレーナーの胸元に留め付けられてい
る名札に気がついた。
み つ る

﹁芦川美鶴﹂
ミツル・アシカワ。なにしろ外国育ち。
こいつが問題の転校生なんだ!
す ば や

声をかけようとしたそのとき、芦川美鶴はするりと動き出し、亘をかわして教室のなか

に入ってしまった。そのあまりの素早さに、亘は、彼が目の前からいなくなっても、たっ
ふ

ぷり二秒のあいだは振り返ることもできず、隣の教室の出入口に背中を向けて、バカみた
つ

つち

いに突っ立っていた。やっと教室のなかをのぞきこんだときには、生徒たちの大半は席に

ついていて、鐘の最後のひと打ち︵録音なんだから、ホントに鐘を槌で打ってるわけじゃ
お

もど

みょう

ないんだけど︶が、震えるような尾を引きながら消えてゆくところだった。
か

亘はあわてて自分の教室に駆け戻った。妙にドキドキしていた。

73

その日はちょうど、塾の授業のある日にあたっていた。亘は一度家に帰ると、いつもよ

り早めに塾へと向かった。宮原もたいてい早めに来ていて、静かなところで自習している
ことが多いからだ。

亘の通っている﹁かすが共進ゼミ﹂は、亘の家から自転車で五分ほどの場所にある。四

みっ

階建ての小さなビルの三階のワンフロアを借り切っていて、教室の数は三つ。亘たち小学

校五年生の授業は週に三度、国語と算数が主体の二時間の授業で、いちばん北側の角部屋
が使われている。

読みはあたって、宮原は一人きり、教室の隅の彼のお気に入りの場所で参考書とノート
を広げていた。算数のようだ。

り こ ん

宮原家は五人家族で、お父さんはガソリンスタンドを経営している。祐太郎の下に、幼
稚園児の弟と、まだお尻におむつをあてている妹がいる。

宮原のお母さんは、宮原の実のお父さんとは、かなり昔に離婚している。弟と妹は、宮

きょうだい

原のお母さんと今のお父さんとのあいだにできた子供たちで、だから宮原とは異父弟妹と

たぐい

いうことになる。誰かが宮原の身の上話を聞いたことがあるわけでもないのだけれど、こ
ぜ

は

や

ういう話は何となく広まって、いつの間にか何となく周囲に知られてしまう類のことだ。
か

風邪が流行るのと、ちょっと似てる。

宮原はとてもいいヤツだけれど、家のなかでどんなふうなのかは、亘も知らない。弟妹

74

か わ い

けん

を可愛がっているという噂を、特に女の子たちの口から聞かされたことはあるけれど、同

じ学区内にいて、同じ塾に通っていて、生活圏内が半分ぐらいかぶっていながら、今まで

弟や妹と一緒の宮原を見かけたことはない。だから確かめようもなかった。

ひとつだけ確かなことは、宮原がこうしてしばしば塾で自習をするのは、家のなかでは、

うるさくて勉強ができないからだということだ。これは本人がそう言っている。それは亘
ぼう

こうりょ

にも想像がつく。赤ん坊と幼稚園児のいるところでは、なかなか集中して勉強しにくいだ

ろう。塾の先生もそのへんを考慮して、教室を使わせてくれている。もちろん、小さな弟

妹がいるという生徒は宮原だけではない。ほかにも何人もいる。ただ、弟や妹がうるさく

て勉強できないということがただの口実になっているのではなく、本当に静かな場所さえ

みは

かべ

あれば勉強ができるのは、宮原だけなのである。だから、たいていの場合、彼はここでぽ
つりと一人で勉強している。

亘が教室に入ってゆくと、宮原は顔をあげて、ビックリしたように目を瞠った。壁の時

じ

め

と申し出た。

計を見る。もうそんな時間か││と思ったようだ。亘はあわてて、ちょっとハナシ、あっ
てさ、いい?

﹁いいけど、何?﹂
ま

宮原がたいそう真面目なので、亘はちょっと言いにくくなった。シンレイシャシンのこ
となんだけど⋮⋮なんて、なんかあまりにも子供っぽいじゃないか。

75

それでもなんとか話し出すと、すぐに、

かみ

﹁ああ、その話かぁ﹂宮原はほっとしたみたいにうち解けた感じになった。﹁学校中の評
判になっちゃってるみたいだね﹂

す

﹁ホントに幽霊が写ったの?﹂
﹁うーん﹂
い

宮原は椅子にそっくりかえり、クセのない髪を手でもしゃもしゃにした。顔はまだ笑っ
ている。

﹁ツツジの花の陰に、人間の顔みたいなものが写ってることは確かなんだ。だけど、幽霊

かどうかはわからないよ。そのときはそう思ったけど、ホントかどうかはわからない﹂

﹁三橋神社の隣の建てかけのビルには幽霊が出るって噂、知ってるだろ?﹂
﹁うん、知ってるよ﹂
﹁それとその心霊写真、なんか関係あるかな?﹂

﹁そんなの、わっかんないよ﹂宮原は本格的に笑いだした。﹁三谷って、そういうの気に
するの?﹂

おこ

と、責められているわ

亘は急に恥ずかしくなった。そのなかにはちょっぴり腹立たしさも混じっていた。だっ
て僕は最初から、そんな噂はまともに受け取ってなかったんだ!
とが

けでもないのに弁解したくなった。ついつい口を尖らせて、女の子たちを怒らせてしまっ

76

た時のことをしゃべってしまった。

﹁ふうん﹂そこでやっと、宮原は本気になったみたいだった。笑いが消えた。﹁僕も幽霊

とかは本気で信じてないけど。だから別に三谷は悪いこと言ったわけじゃないんじゃない
の。気にすんなよ﹂
﹁それならいいんだけど││﹂
なぐさ

慰められて、しかしそれでは話が続かなくなった。大松香織のこともしゃべっちゃおう

か。すごい美少女に会ったもんだから、あれからソワソワ落ち着かないんだよって。宮原
なら絶対に笑ったりからかったりしないはずだから。
そ ば く

でも、口から出たのは別の言葉だった。﹁芦川ってどんなヤツ?﹂

宮原はごく素朴に不思議がった。﹁どんなヤツって、どんな意味?﹂
﹁今朝初めて見たらさ、あいつ人形みたいな顔してんじゃん?﹂
亘にしてみれば、あれは﹁会った﹂のではなく﹁見た﹂のである。

ふく

﹁いいヤツだよ。うん﹂宮原はすぐに答えた。無理をしているのでも、何か含みのある答

こうい

え方でもなかった。﹁人形みたいな顔ってね。うん、うちのクラスの女子、騒いでる﹂

心霊写真撮るなんてさ。しかも持って帰ったんだろ?

宮原は面白くなくないのだろうか。彼だって〝いちばん人気〟なのだ。
﹁だけど変わってない?

うことで騒ぐのはよくないとか言ってさ。なんかカッコつけてんじゃんか﹂

77

﹁カッコつけたわけじゃないと思うけど﹂宮原はまたクスクス笑った。﹁そんなに気にな
ここに?﹂

るんなら、会ってみりゃいいよ。来るからさ﹂
﹁来るって?
﹁うん。今日から﹂
き

どこかいい塾はないかと訊かれたので、ここを教えたら、すぐに通うことに決まったの
だそうだ。
﹁ここでも女の子たち、騒ぐだろうね﹂
﹁どうかな。だけど別にいいじゃない、騒いだって﹂
﹁芦川って、勉強││﹂
﹁できるよ。きっとかなり成績いいよ﹂

ニコニコと言われて、亘は宮原の顔を見た。ぜーんぜん気にしていない。ホントに気に

していない。無理して突っ張ってるわけじゃない。自然体。〝いちばん人気〟の座を追わ
れても、やっぱり気にしないんだろう。

宮原は、失うものなんかないんだと、亘は気がついた。芦川美鶴がどんなに優秀でも、
ま

カッコよくても、それで宮原がバカになるわけじゃない。宮原は宮原のままで勉強ができ
う

て、足も速くて、泳ぎも上手くて、何でもできてカッコいいということに変化はないのだ。

むしろ、独りぼっちの優等生でいるよりは、優等生同士の友達がいた方が楽しいくらいか

78

もしれない。〝いちばん人気〟の席を取り合うのではなく、仲良く並んで座るようになる
だけなのだ、きっと。
せま

そのへんの事情は、亘なんかとはまったく違う。カッコよくてできるヤツの人数が増え
れば増えるほど、こっちは居場所が狭くなるのだから。

亘と同じことを口に出しても、宮原や芦川は女の子を怒らせたりせずに済むのだ。現に
は

そうじゃないか。自分で心霊写真を撮っておきながら、﹁こういうことで騒ぐのはよくな

い﹂なんてセリフを吐く。それは、意味としては亘がクラスの女の子たちを怒らせてしまっ

たときの言葉と、ほとんど差はない。だけど芦川と一緒にいた女の子たちも、この噂話を

いや

聞いた女の子たちも、誰一人として﹁芦川は心霊写真を信じてない、嫌なヤツ﹂と責めた
りしなかった。

宮原が、﹁三谷は間違ったこと言ってないよ、本当に三橋神社で人が死んだことがある

かどうか確かめてみる前に、これはその幽霊だなんて言っちゃいけないと、僕も思うよ﹂
す な お

と言ったなら、女の子たちは素直に聞くのだろう。それはもう間違いなくそうするんだろ
う。宮原君がそう言うなら、そうなのねなんて言うんだろう。
めちゃめちゃ不公平だ。
つぶ

ほかのすべての感情を潰してしまうくらい、ぐいーんと腹が立ってきた。女の子たちが

何人か、おしゃべりしながらやって来たのをきっかけに、亘は席についた。塾では早い者

79

順で自由に座る場所を決めていいのだが、やっぱりそれなりに定位置というものはできる
ものだ。亘の席は、廊下側の真ん中だった。

定刻五分前に、亘たちの担当講師の石井先生が教室に入ってきた。そのすぐ後ろに、芦

川美鶴がくっついていた。教室は八割がた席が埋まっていて、べちゃべちゃとおしゃべり
にぎ

が賑やかだったのだけれど、芦川を見たとたんに、みんなピタリと静かになった。

塾仲間は、だいたい三つの小学校の生徒たちで構成されている。城東第一と、城東第三

しょうかい

と、後は私立に通う子供たちだ。第三と私立の子供たちは、芦川美鶴を見るのは初めてだ
おどろ

か

から、そりゃ驚きも大きいだろう。
あいさつ

先生はみんなと挨拶を交わすと、芦川を紹介した。

こ が ら

﹁今日から一緒に勉強することになった芦川美鶴君です。城東第一のみんなはもう知って
るよね﹂

石井先生は二十四歳。大学の研究生で、ここでの講師はアルバイトだ。小柄なので、服

装によっては高校生ぐらいに見えるときもある。それでもとにかく凄く頭のいい先生だし、
おさ

詰も上手いし、授業は面白い。何より亘たちをごまかしたり頭を抑えつけたりすることの
ない人なので、みんなに好かれているし尊敬されている。
い

それなのに、芦川と並ぶと、なぜかしら先生が││何というのだろう││小さく見えた。
ご

それはまだ亘の語彙のなかにはない言葉と言い回しを必要とする表現だった。貧弱に見え

80

る。位負けしている。そんなところか。さっき先生が芦川を連れてきたときからしてそう

だった。芦川が先生にくっついているというのではなく、立場上後ろに従っているだけだ
というように見えた。

﹁芦川です﹂と、言って、彼はちょっと頭をさげた。それで充分という感じだった。よく
通る声だった。

しの

芦川は空いている席に座るとき、宮原と目を合わせて、ちらっと笑った。宮原も笑い返

した。亘の並びの席の女の子たちが、頭を寄せ合ってそんな二人を見やり、忍び笑いした
うれ

り囁いたりしている。嬉しそうだ。

石井先生は、できるだけ個別指導に近い形で授業をしたいという方針で、だからその日

の勉強時間のあいだには、芦川が宮原の言うとおりの秀才なのかどうか、亘にははっきり
ふ ん い き

つかむことができなかった。それでも、できそうな雰囲気というのは感じた。どうやらコ
イツは、本当にラベルどおりの〝凄いヤツ〟であるらしい。隕石だ。

授業が終わって帰る時間になると、当然のように宮原と芦川は二人組になった。塾の同

級生たちが周りを取り囲む。女の子たちばかりではなく、男子も混じっている。亘は二人
すき

かか

に近づく隙を見つけることができなかったし、大勢がわいわい楽しく騒いでいるところで、

かばん

心霊写真は本物かだなんて、いきなり言い出したくはなかった。だから鞄を抱えてさっさ

81

わかってるくせに。

と家路についた。あんまり急いだので、まるで逃げてるみたいだと思った。だけど、何か
ら?
げんかん

かぎ

けっして逃げているのではないと自分に対して申し開きするために、そんな必要はない

のに、家までずっと走って帰った。ただいま、と玄関の鍵を開けて飛び込むと、リビング

のガラスのドアごしに、邦子が立っているのが見えた。電話に出ているらしい。亘がドア

を開けると、顔をしかめていた。そして、乱暴にがちゃんという感じで受話器を置いた。
﹁どうしたの?﹂

いそが

﹁また無言電話なのよ﹂邦子は言って、本当に腹立たしいという様子で鼻を鳴らした。台
なべ

し た く

所では鍋が沸き立って、白い湯気が盛んにあがっている。

﹁今日はこれで三度目。夕飯の支度にとりかかってから、こっちが忙しいのをわかってて
かけてるみたいな感じで⋮⋮﹂

そこで初めて、亘は母がただ怒っているだけでなく、怖がっているのだと気づいた。
﹁今度かかったら、僕が出る。お鍋ふいてるみたいだよ﹂
﹁あらヤダ!﹂

邦子は台所に飛んでゆき、亘は自分の部屋に行って鞄を片づけた。邦子は、台所が落ち

や

着くと、塾はどうだったとか、今夜はチャーハンにしたけど給食はなんだったのとか、矢
つ

継ぎ早に話しかけ始める。いつものことなので、亘もあれこれ話したけれど、どうしても

82

芦川のことがひっかかってしまって、ちっとも楽しくなかった。

手を洗って食器を並べていると、電話が鳴った。亘は飛びついて受話器を持ちあげた。
﹁小村ですケド、亘君いますか?﹂

カッちゃんだった。邦子がサラダを混ぜる手を止めてこっちを見ている。亘は違う違う
というふうに手を振って合図した。
﹁今日って塾の日だったろ?﹂
ば

小母さんにオレ怒られちゃうから﹂

お

﹁そうだよ、だからこれから夕飯﹂
﹁そんじゃ後にする?

カッちゃんはやけに騒がしい場所から電話をかけている。聞き取りにくい。
﹁またかけ直すよ﹂
﹁うん、じゃそうして﹂

母さんも

カッちゃんは早々に電話を切った。母さんがカッちゃんをよく思っていないことは、ちゃ
んと伝わっているのだ。

しばしばうちに電話をかけてくるのが、優等生の宮原だったらどうだろう?

カッちゃんより、宮原祐太郎の方がいいか?

嫌な顔なんてしないだろう。宮原君のいちばんの仲良し。母さんにも満足の行くポジショ
ンだろう。
亘自身はどうなんだ?

83

宮原はいいヤツだけど、亘にとって、付き合って面白い友達になるだろうか。いつもこっ

ちが引け目ばっかり感じてなくちゃならなかったら、そういうのは〝友達〟じゃないんじゃ
ないのかな。

宮原みたいに評判がよくて、カッちゃんみたいに面白い友達ならいいんだ。だけどそん

なもん、あり得ない。お客さんで満員で凄く賑やかだけど、乗り物に乗るのに一時間も二

時間も待たなくてもいい東京ディズニーランドと同じぐらい、あり得ない。
宮原と芦川。
りょうはし

の

カッちゃんと亘。
はかり

秤の両端に載せたら、結果は目に見えてるような気がする。いや、亘とカッちゃんの全

敗というのじゃなくて、秤の種類によっては、亘たちの方が重い場合だってあるだろうけ

れど、ただその秤は、亘が心から載せてほしいと願う秤じゃないような気がする。

そんなことを考えていたら、また電話が鳴った。今度こそは無言電話だろう。亘はさっ
と受話器を取った。
﹁三谷です!﹂
﹁亘か?﹂
明からだった。
﹁なんだお父さん﹂

84

﹁なんだはご挨拶だな﹂
﹁また無言電話がかかってきて、お母さんが怖がってるんだ﹂
ちょっと間が空いた。﹁今日か?﹂
﹁うん、夕方に三回ぐらい﹂

邦子が電話に近寄ってきたので、亘はお父さんだよと言って受話器を差し出した。そし

はん

て自分はテーブルに戻った。夕食の皿が並んでいる。今夜も母さんと二人きりの夕ご飯だ。

邦子はしばらく電話でしゃべった後、﹁はいはいわかりました、準備しておくから﹂と、
そ

何だかセカセカと承知して、﹁それじゃ、ご苦労様です﹂と言ってから切った。亘は、母
ねぎら

けしょうひん

が父からの電話の際、必ずこうして労いの言葉を添えるのを、当然のように思っていた。

でも、一年ほど前のことだったろうか、母さんの同級生とかいう人が化粧品のセールス

にんしき

レディをしていて、仕事がてら遊びがてらうちを訪ねてきたときに、その認識をあらため

た。その小母さんはなかなかきれいな人だったけれど、化粧の匂いが強すぎて、亘はそば
こ

にいると鼻がムズムズした。だから挨拶だけ済ませると、自室に籠もってゲームをしてい
たのだ。

母さんとそのセールスレディの小母さんが賑やかにおしゃべりしているときに、今日の

ように父さんから電話がかかってきた。母さんはいつものように応対し、いつものように

労いの言葉で電話を終えた。するとセールスレディの小母さんがとても驚いて、大きな声

85

を出すのが聞こえた。
﹁信じられないわぁ、今の、ご主人なんでしょ?
えら

ひ

げ

だ ん な

今はもう明治時代じゃないのよ、旦那

﹂

亘は辞書を引いた。〝相手を敬い、自分を卑下する

の方が邦子より偉いわけじゃないのに、なんでそんなにへりくだるの?
へりくだるってどういう意味だ?

こと〟と書いてあった。もっとよくわからなくなってしまった。だから、セールスレディ

の小母さんが、急にがさつな感じになって、お説教がましく母さんにあれこれ言うのを注
め

意深く聞いていた。その方が意味がわかるかもしれないと思ったのだ。
だ

あ

がた

﹁古風なのもいいけど、あんまり亭主を甘やかしちゃ駄目よ。結婚した以上、あっちには
にょうぼう

働いて女房子供を養う義務があるんだからさ。五分五分よ。有り難がることないわよ﹂

母さんは笑いながら、別に甘やかしちゃいないわよと、言葉少なに反論していた。

﹁亭主なんて、外じゃ何やってるかわからないんだからね﹂セールスレディの小母さんは

言って、ケタケタと笑った。﹁うちなんかもう、お互いに放任主義よ。あっちもこっちに
かんしょう

・

・

・

・

干渉しない。こっちもあっちに干渉しない。子供さえいなかったら、とっくに別れてるわ
ね。子はかすがいとは、ほーんとによく言ったもんだわよ﹂
よご

たの

小母さんがしゃべればしゃべるほど、部屋の空気が汚れてゆくように、亘は感じた。き
そ う じ

れい好きの母さんが掃除をした床や壁を、小母さんが、誰も頼んでもいないのに、こんな

86

ぞうきん

んじゃ掃除したことにならないわよとか勝手に決めつけて、汚れ雑巾をかけ直しているみ
たいな感じがした。
おとず

そのセールスレディの小母さんは、二度と三谷家を訪れなかった。母さんもあの人のこ
と好きじゃないんだなと思って、亘はホッとした。

夕食の後、カッちゃんに電話をかけてみると、今度は凄くテレビの音が大きいところで、
本人が出た。
﹁ちょっとボリュームさげてくれる?﹂
わり

﹁あ、悪いわリィ﹂
どこで?﹂

何かと思えば、今日学校の帰りに大松社長に会ったよ、というのである。
﹁何で?
せ こ う

﹁幽霊ビルの前でさ。なんか、灰色の作業着着た人と一緒だったよ﹂
息子さんは?﹂

む す こ

次の施工業者が見つかったのかもしれない。
﹁社長さんだけだった?
つ

﹁いなかったけど││何で?﹂
﹁何でって﹂亘は詰まった。﹁別にワケなんかないけどさ﹂

カッちゃんにはこういうところがある。どんなことにも、﹁何で?﹂って訊けばすぐに

答をもらえるって信じ切っている。これがたぶん、〝単純〟ということなのだろう。

87

﹁社長さん、嬉しそうだったよ。工事が続けられるようになったんだって﹂
やっぱりそうか。
ほう

﹁ビルが完成すれば、変な噂なんか消えてなくなるだろうしね﹂と、亘は言った。﹁その

方がいいよ。放っておくと、隣のクラスの芦川とかいうヤツみたいに、あそこで心霊写真
を撮って喜ぶようなのが出てくるからさ﹂
うそ

嫌な言い方だった。しかも嘘だ。
こうしんりょう

はっきり嘘だと承知しているけれど、他人が耳にしたら確実に驚くであろう言葉を口に
し げ き

すると、舌が刺激的にピリピリする。香辛料みたいだ。だから、クセになるとやめられな

くなるのだ。うかうかと嘘をついちゃいけないのは、そういうクセがつくと、あとあと怖
いからなのだ。
何だよ心霊写真なんてさ﹂

だけど亘は言ってしまった。案の定、カッちゃんは飛びついてきた。
﹁それ何?

亘は説明してやった。それが嘘を積み重ねることになると、重々承知しつつ。カッちゃ
んはまったく初耳だったらしく、開けっぴろげに驚いている。
﹁スゲエなぁ、見たいなぁ﹂
た

ち

﹁やめとけよ。そうやって騒ぐから、芦川がいい気になるんだ﹂
は

﹁オフクロが、二十歳までに幽霊を見なかったら、一生見ないで済むっていうんだ﹂

88

り く つ

オレは絶対に二十歳までに見たいよ。幽霊も見ないで暮らすなんて、つま

﹁だったらなおさら見ない方がいいよ﹂
﹁そうかぁ?
んないじゃんか﹂

カッちゃん一流の理屈である。つまらなくない人生を切り開くためにゲットしなければ

ならないものは、幽霊を見る〝素質〟なんかじゃないはずなんだけどと言いかけて、亘は
の

言葉を呑みこんだ。そんなことを言ったところで、カッちゃんからはさらにトンチンカン
ろ

な返事が来るだけだろう。そういうことに、今夜は何だか妙にイライラした。
ふ

﹁それじゃ、オレお風呂に入らなきゃなんないから﹂

カッちゃんはまだ何か言っていたが、亘はさっさと電話を切った。邦子が、小村君は何

の用だったのと尋ねたので、何とかカンとか適当に答えた。そして自分の部屋に入った。
とつぜん

ひび

と固まった。

ドアを閉めて一人になるとホッとした。
そこに突然、女の子の声が響いた。
﹁嘘つき﹂
椅子に座ったまま、亘はかちん!

89

4

見えない女の子

ソラミミ。
ぬ

先週、大松さんたちに会った夜、家を抜け出す前に起こったのと同じアクシテントだ。
かわ

口のなかがひゅうっと渇いた。
﹁あなたって嘘つきだったのね﹂
そらみみ

かべ

うす

再び、空耳。甘い女の子の声のように聞こえるけれど、これはたぶん耳鳴りだ。いや、
となり

せ り ふ

隣の家のテレビの音だ。このマンションは設計書に書いてあるよりも壁が薄いって、前に
父さんが文句を言ってたじゃないか。
す

﹁聞こえないふりをしてもムダよ﹂

あなたはそういうことするヒトだったの?

拗ねたような女の子の声だ。テレビドラマの台詞だ。決まってるじゃないか。
﹁どうして、お友達にあんな嘘をついたの?
あたしガッカリしちゃったわ﹂
がら

亘はそうっと周りを見回した。見慣れた自分の部屋だ。今日は母さんがベッドカバーと
か

ば

あ

枕カバーを取り替えてくれたらしい。ブルーのチェック柄から、黄色いチェック柄のに替
ほんだな

わっている。きれいに背表紙の並んだ本棚。その下には、千葉のお祖母ちゃんが入学祝い

90

くや

に買ってくれた﹃こども百科事典﹄が並んでいる。もらってしまってから、ワンセット二

十万円もすると聞いて、亘は悔しかった。そんなお金使ってくれるんだったら、パソコン
とが

にしてほしかったのに。そう言って口を尖らせたら、小学校の入学祝いには﹃こども百科
いや

じ ゃ ま

事典﹄がぴったりなのだと言い返された。パソコンなんて、大人になってから自分で買う

ゆか

じゅうたん

あか

い

す

もんだよ、お祖母ちゃんは嫌だね。おかげで場所ばっかりとって、邪魔くさくてしょうが
ない。
ひるがえ

壁のカレンダー。床の絨毯。机の上の消しゴムのカス。天井の灯り。

だれ

かく

ふ

亘はバッと身を翻して、机の下をのぞきこんだ。はずみでキャスター付きの椅子がごろ
りと動いた。
ふ

もちろん、誰が隠れているわけもない。
するど

そうさかん

ぼうだん

それでも、今度は鋭く振り返って、ベッドの下をのぞいた。まるで犯人のアジトに踏み
つ

そ う じ

込むFBI特別捜査官みたいだ。背中にロゴの入ったジャンパーを着て、その下には防弾
かた

ベスト。ホルスターは肩から吊っている。
わたぼこり

ベッドの下には、丸い綿埃がひとつ隠れていた。母さんによる掃除作戦から、かろうじ
て生き延びたゲリラ兵が、ひょっこり投降してきたというだけ。
もど

女の子のくすぐったそうな笑い声が聞こえてきた。﹁あたしは隠れてなんかいないわ﹂
か ら だ

亘は身体を起こして、ゆっくりと椅子に戻った。心臓がピンポン玉くらいの大きさになっ

91

ふ

て、ドキドキしながら身体じゅうをコロコロ回っているのを感じる。いつも心臓が収まっ

ている場所はぽかりとお留守になって、そこを冷たい風が吹き抜ける。
たず

﹁どこにいるんだよ?﹂と、小さく尋ねた。

不思議だった。女の子の声が聞こえてくる方向が、全然見当つかないのだ。天井からで

もない、壁からでもない、前からでも後ろからでも、足元からでもない。
ひび

それなのに、亘の頭のなかに響いてくる。でも、自分の声とははっきり区別がつくのだ。
﹁あたしは隠れてなんかいない。でも、探してもどこにもいない﹂
うた

女の子の声は、謳うように言った。

何言ってん

探すから隠れるの?

﹁隠れていないものを探すなんて、ナンセンスだから。探さなければならないものは、必
ず隠れているはずだなんて、どうしてそんなふうに思い込むの?
隠れるから探すの?﹂

亘は顔をしかめた。思わず、空に向かって問い返した。﹁オマエ何だ?
の?﹂
す ば や

女の子の声が言った。﹁あたしはあなたのそばにいるのよ﹂
ひらめ

亘ははっと日を見開いた。閃いたのだ。素早く椅子から立ちあかると、ドアを開いて部

屋を出た。リビングでは、テレビが楽しそうにCMソングを歌っている。邦子の姿は見え

92

ふ

ろ

つ

ない。お風呂だ、きっと。母さんはいつも、テレビを点けっぱなしにしておいてお風呂に
入る。
わき

ど

カウチの脇の小引き出しに、使い捨てカメラがひとつ入っていたはずだった。先月家族

で動物園に行った時に買ったもので、二十四枚撮りなのに、結局三、四枚しか撮らずに帰っ
さぐ

め

亘はカメラをつかんで自分の部屋にとって返した。

てきてしまった。それでそのままになっているのだ。
だ

引き出しを探ると││あった!

いや、駄目だ。やみくもに飛び込んではいけない。閉じたドアの脇の壁にべったりと背
とつにゅう

中をつけて、呼吸を整える。FBI再び。しかし今のミタニ捜査官にはバックアップをし
どうりょう

しの

てくれる同僚がいない。タンドクでの突入である。ドアのノブをゆっくりとつかんで回す。

そうっと動かす。ドアを十センチ開く。二十センチ開く。よし、音をたてずに忍び込め。
きょうあく

とくしゅ

カメラを持った右手を背中に回して、閉めたドアにそのままよりかかる。犯人は気づい

ていない││か、どうかわからない。なにしろこの凶悪犯は、不可視光線を放つ特殊スー

ツを装備している││という表現はおかしいかもしれないけど、とにかく目に見えないと

じゅう

いうことをイカメシク言い表したい。ああ、赤外線バイザーを持ってくればよかった。

大きく深呼吸してタイミングを計ると、亘はカメラを取り出し、銃の引き金を引くよう
に││心境としては││シャッターを押した。
フィルムを巻いてなかった。

93

これだからイヤなんだ。使い捨てカメラで写真を撮るときは、一枚撮ったらすぐに巻い
ておかないとダメなのに!

こうなってはもう、バレバレだ。亘はフィルムを巻いてはシャッターを押し、部屋じゅ

うをぐるぐると撮って撮って撮りまくった。そのあいだは何も考えなかった。天井を撮り、
あせ

ベッドの下を撮り、椅子の陰を撮り、振り返っては撮り、しゃがんでは撮った。
こう

ぬぐ

とうとうフィルムが一枚もなくなった。鼻の頭にうっすらと汗をかいている。それを手

の甲で拭って、床に座り込んだ。たいした運動量ではなかったのに、はあはあとあえいで
いた。

女の子の声が、静かに言った。﹁あたしが写っていなくても、写っていたって嘘をつけ
ばいいじゃない﹂
ひざ

亘は再びかちんと固まってしまった。指がこわばり、カメラが膝の上に落ちた。

﹁あたしが写っていても、写っていなかったって嘘をつけばいいじゃない﹂

前の声は、右から聞こえたような気がした。後の声は、左から聞こえたような気がした。

﹁ないことも、あるって言えばあることになるの。あることも、ないって言えばないこと
になるの﹂
ささや

今度の声は、足元から囁きあがってきたように聞こえた。
こ さ め

そして次には、天井から声が降ってきた。まるで小雨のように。

94

﹁あなたはあなたの中心で、あなたは世界の中心だから﹂
せ

あお

謳うような声の調子が、少しずつ変わってゆくことに気づいた。なんだか⋮⋮悲しげだ。
せ っ ぱ つ

説明のしにくい、でも切羽詰まった心に急かされて、亘は部屋の天井を仰いだ。そして
声に出して問いかけた。
﹁君はどこにいるの?﹂

心臓がやっと元の大きさを取り戻し、いつもの収納場所へと早足で戻ってゆく。ことり、

ことり、ことり。亘がその足音を五つ数え終えたときに、女の子が答えた。
﹁あなたはもう、知っているのに﹂
さだ

そして││居なくなったような感じがした。姿が見えず、どこから亘に話しかけている

ふる

かも定かでない女の子なのに、それでも彼女がこの部屋から居なくなったことが感じ取れ
た。それはちょうど││接続が切れたような。

気がつくと、首も背中も汗びっしょりになっていた。指先が震えている。膝の脇に落ち
た使い捨てカメラを拾おうとして、二度もつかみ損ねてしまった。
あなたはもう、知っているのに。

そんなはずはない。あの甘い声。うちのクラスに、あんな声の女子はいない。友達の声
なら、聞けばすぐにわかるはずなんだ。
││いったい、誰なんだよ。

95

急に、置いてきぼりにされたような気がした。それでいて、誰かを置き去りにしてしまっ
たような気もするのだった。
こ づ か

今月のお小遣いの残りでは、使い捨てカメラをスピード現像のお店に出すわけにはいか

なかった。中一日かかるけれど、近所の大型薬局にフィルムを持ってゆくしかない。しか

も、薬局は、亘が登校する時間にはまた開いていないので、帰り道に寄ることになる。ま

すます時間を食ってしまう。子供であるというのは、なんて不便なことなんだろう。

勉強机の脇の本棚にズラリと並べてあるお気に入りのマンガの単行本の奥には、バター
かん

クッキーの空き缶が隠してあり、そのなかには、この九月に発売される﹃ロマンシングス
ど

ぶた

トーン・サーガⅢ﹄を買うための、秘密の貯金が入っていた。それに手をつければ、スピー
と

うれ

ド現像に出すことなんて簡単だ。心がグラついた。マンガ本を退けて、缶のうわ蓋の絵柄

を見るところまでは、やってしまった。溶かしバター色の仔ウサギが嬉しそうにクッキー

を食べている。それをしばらくのあいだ見つめて、首を振り、マンガ本を元に戻した。今

はもう六月も半ば。ここでこのお金を使ったら、﹃サーガⅢ﹄の発売までには、絶対に問
にあわなくなる。
かばん

結局、使い捨てカメラを学校の鞄のなかに忍ばせておいて、翌日の午後、走って薬局へ
行った。

96

わた

らん

あ さ っ て

細長い預かり票の﹁お引き渡し日時﹂欄には、明後日の午後四時以降という、亘にとっ

商店街をとぼとぼと歩いていると、カッちゃんと二人でよく冷やかしに来るゲー

ては非情な文字が並んでいた。そのあいだ、いったいどうやってあの部屋で暮らせばいい
んだ?
う

つ

ムソフト・ショップの前に出た。コンビニよりもひとまわり小さいくらいのお店で、ぐる
とうめい

す き ま

りは透明な窓ガラス。その窓をすべて埋め尽くすように、内側からありとあらゆるテレビ
ちんれつ

はし

ゲームのポスターが貼ってある。ところどころにわずかに空いた隙間から、店内に設置し

てあるゲームソフトの陳列棚や、デモ用のモニターの端っこがちらちらと見える。

﹃ロマンシングストーン・サーガⅢ﹄のポスターは、お店の正面に近い、自動ドアのすぐ
しょうかい

脇の窓の内側に貼ってあった。ゲーム雑誌ではもう、設定画の一部と主要な登場キャラク
う

ほ

ターが紹介されているのだけれど、ポスターの方はあっさりしたものだった。真っ青な空
はんせん

そう

に、綿をちぎったような小さな白い雲がたくさん浮いている。その中央を、帆に風をいっ

ぱいにはらんだ帆船が一艘、飛ぶように進んでゆく││という絵だ。海ではなく青い空に、

ごくぶと

八月二十日予約受付開始﹂と、手書きの

波を切って進む船。もちろん、主人公たちを乗せる船だ。
そ

ポスターのすぐ上に、﹁九月二十日発売予定
たんざく

短冊が添えてある。こちらは極太のマジックで、しかも赤い字で書いてあった。﹁予定価
格六千八百円﹂。
なが

しばらくのあいだそれを眺めていると、やっぱりクッキーの缶の貯金に手をつけなくて

97

よかった││という気持ちが込みあげてきた。

平均的な小学校五年生が、どういう経済状態にあるのかは知らないが、少なくとも亘に
の

とって、六千八百円は大金だった。だから、マンガ雑誌やゲーム雑誌に﹃サーガⅢ﹄の発
売日決定の情報が載るとすぐに、貯金を始めたのだ。

がん

つう

三谷家では、原則としておねだりは通用しないことになっている。﹁算数のテストを頑
ば

し ん ぼ

ほうしゅう

張るから﹂﹁夏休み中早起きするから﹂という未来担保型のおねだりでも、﹁今学期の通

信簿が良かったから﹂﹁このテストで頑張ったから﹂という成功報酬型のおねだりでも、
け

う

ひとしなみにダメである。だから、亘の自室にある十四インチのテレビは、ねだって買っ
こうにゅう

てもらった側の亘本人も、にわかには信じられないほどの希有の例外だったわけだけれど、
それでさえ購入の際には、
み

﹁もう亘にも、自分で観たい番組を選ぶ機会がなくちゃね﹂

﹁亘が亘自身の意志で選ぶ番組がどんなものなのか、お父さんもお母さんも興味があるか
らな﹂
おもわく

という、別の〝理由〟がついていた。亘としてはねだって買ってもらったつもりのテレ
ビだが、両親には別の思惑があるというわけなのだ。

三谷明は特にこのへんのことに厳格で、﹁亘には、人生の大事な局面で、これこれのこ

とをすれば、これだけの見返りがある、世の中はそういうものだなんていう考え方をして

98

もらいたくない﹂と、しょっちゅう言っている。﹁努力は報酬のためにするものじゃない。
自分自身のためにするものだ﹂

カッちゃんはそんな三谷の両親を評して、﹁すっげえ厳しい﹂と、日を丸くする。亘に

は、返事のしようがない。それでも、こういうお小遣い方面で泣き落としのきかない両親

くふ

を持っていれは、イヤでも現実的にならざるを得ないということはわかっている。欲しい
う

お

じ

ものと、買えるものとは、常に絶望的なほどイコールではないので、ほしいものの方を工
夫して合わせてゆくしかないのた。
じょうきょう

おどろ

亘の置かれているそういう状況を指して、もう一人、
﹁すっげえ厳しい﹂

と、カッちゃんと同じような表現で驚く大人がいる。ルウ伯父さんだ。

友達の手前もあるんだ

﹁明、亘はまだまだ子供なんだから、たまにはもうちょっと甘やかしてやれよ﹂
なんて言ってくれることもある。
ほ う び

﹁亘だって、頑張ったときには、やっぱりご褒美がほしいよな?
しさぁ﹂

でも、ルウ伯父さんのそんな意見に、父さんはまったくとりあわない。

﹁兄さんは子育てをしたことがないんだから、何もわからないでしょう。子供と同じレベ
ルで発言するだけじゃ、無責任ですよ﹂

99

そんなふうに切り返すだけだ。
きちょうめん

ちが

亘に関することだけでなく、三谷悟と三谷明は、ことごとに意見が食い違う兄弟だ。た
おおざっぱ

か

めんどう

いていの場合ルウ伯父さんの方が大雑把で、父さんの方が几帳面で、だから最後には父さ

んの意見の方が勝つ。論争したり意見を交わすことそのものが、ルウ伯父さんは面倒でしょ
うがないのだ。
け ん か

それでも、兄弟仲が悪いわけではない。喧嘩なんかしないし、夏休みとかお正月とか、

千葉のお祖母ちゃんの家ではけっこうお酒を飲んで話し込んだりしている。そう、むしろ
仲良しの兄弟だと言っていい。
ねば

でも││このごろ時々、亘は感じる。ほかのどんなことで言い争うときよりも、亘に関

することで論争するときがいちばん、ルウ伯父さんは粘り強くなるみたいだ。なかなか投

げ出さないもの。﹁ま、そんなたいした問題でもないからよ﹂という、伯父さんのきまり

文句みたいな台詞を口に出すまで、ほかの問題の時より││たとえばそれが﹁法事﹂みた
いな大事な行事のことであっても││時間をかける。

かげ

そしてそのことは、亘の心に、本人が気づいている以上に意味のある影を投げかけてい

るのだった。ただそれは、今のところはまだ、はっきりとした問題意識にはなっていない。
亘は両親を好いていたし、ルウ伯父さんも好いていた。

亘が千葉の家に遊びに行くと、ルウ伯父さんは、よくお小遣いをくれる。﹁お父さんに

100

ないしょ

は内緒でな﹂と、こっそりとくれる。でも、亘はそれを、後で必ず両親にうち明ける。特

に去年あたりからは、ルウ伯父さんが一度にくれるお小遣いの額が大きくなってきたので、

一人で隠しておくのは不安でたまらないのだ。すると父さん母さんは、亘からそのお小遣

いを受け取って、亘名義の銀行口座に預けてくれる。ときどき、その通帳を亘に見せて、
た

どれぐらい貯まったか教えてくれることもある。この習慣は、亘が初めてそれと意識して
﹁お年玉﹂というものをもらった、四歳のお正月から始まった。
﹁うちでは、子供に大金を持たせる習慣をつけたくないので﹂

父さんは、どちらの実家に行っても、そのように説明している。母さんの実家の小田原

こわ

のお祖母ちゃんは、ルウ伯父さん以上にこっそりと││なんかちょっと父さんのことを怖

がってるみたいに見えるくらいにこっそりと││ルウ伯父さん以上の大金をくれることが
し だ い

あるけれど、そのお金も同じようになる。

そういう次第で、亘には無駄使いできるお金はほとんどない。カッちゃんだけでなく、
こころもと

ほかにも、それを聞いて﹁三谷くんのウチは厳しい﹂と驚くクラスメイトがいる。﹁よく
き

こんじょう

ひそ

それでグレないね?﹂などと真顔で訊かれて、亘はいささか心許なくなったこともあった。

﹁よくグレないね?﹂という質問の裏に、﹁アンタ根性ないね﹂という評価が潜んでいる
ように感じてしまったからである。

それで、お小遣い関係について、たった一度だけだけれど、邦子に問いかけたことがあっ

101

そうでないとしても、どうしてウチのやり方は、ほかの

た。ボクは父さん母さんが厳しいとは思わないけど、友達はみんな﹁厳しい﹂と言います、
ホントに﹁厳しい﹂んですか?
友達のところと違ってるんですか?

それは折しも、例の六年生の問題児石岡健児が校長先生の車を転がした事件で、学区内

が混乱していた時期のことだった。だから、タイミングとしてはあまりよくなかったかも
ふ だ ん

しれない。一学年上の生徒のことだから、普段はほとんど耳に入ることのない石岡家の事
かんだい

しつ

情を、このときばかりは、三谷邦子もよく知っていた。そして腹を立てている最中だった。
あら

うわさ

じか

石岡は、お小遣い方面では亘よりもすっと寛大な躾けられ方をしている子供たちさえも
ぎょうてん

仰天させるほどに、金遣いが荒いのだ。噂に聞く限りでは︵本人に直に尋ねて確かめてみ

る気になんか、とてもなれない︶石岡の一ヵ月分のお小遣いだけで、﹃サーガⅢ﹄が十本

ひとつき

は買えるほどだという。しかも、それはあくまでも﹁石岡が親からもらうお小遣いの平均

額﹂の話であって、実際にはもっともっと多いのではないかという。本人でさえ、一月に

どのくらいお小遣いを使っているか、はっきりわからないのだそうだ。つまり、ねだれば
じ ま ん

ねだっただけもらえるからである。

しかも石岡健児の母は、それを自慢にしているらしい。PTAの集まりでも、﹁子供に
ふいちよう

お金の不自由はさせたことがない﹂と、たいそうな勢いで吹聴したそうである。念のため

む す こ

にしつこく言うが、そのPTAの集まりとは、ほかでもない彼女の息子の石岡健児が、校

102

け

が

ゆえ

長先生の車を運転して下級生に怪我をさせるという事故を起こしたが故に、招集された集

まりのうちのひとつだったのである。彼女はそこでそう言ったのだ││文脈としては、
ちりょう

はら

﹁ウチでは子供にもお金に不自由はさせていない、つまり金持ちなのである、従って怪我

をしたトロい子供の治療費も、ちまちまケチったりせずにちゃんと払ってやる、だから文

句はないだろう﹂ということが言いたかったのだろうが、いずれにしろ、そうでもしない
かいしゃく

と聞かされた側の心の平安が保てないという理由さえなければ、そんなところまで踏み込
んで解釈してやる必要などまったくないような〝たわ言〟であった。
おこ

三谷邦子はそれを怒っていた。言語道断だというのである。あの親にしてあの子ありだ!
じょうだん

は

冗談じゃないわよ、まったく。だけどPTAの集まりでは││というより民主主義国家

では││思想信条の自由は保障されているわけで、どれほど不届きな暴言を吐く人間であ
たお

かま

ろうとも、だからと言って張り倒してしまうわけにはいかない。どれほど腹が立っても、

それで相手を裁くわけにはいかないのだ。そういう次第で、三谷邦子は、地獄の竈が不完
ねんしょう

全燃焼しているみたいな心境で帰宅したのであった。

よりによって亘は、そこに小遣い問題のギモンについて問いかけてしまったのだった。
思えば間の悪い子供である。

案の定、邦子は、亘が〝小遣いが少ない、友達にもそう言われた〟というふうに、文句
を言っているのだと解釈してしまった。

103

﹁あんたも石岡君みたいにお小遣いがたくさんほしいっていうの?﹂というふうに切り返
してきた。おっそろしく感情的になっていた。
だいきら

﹁言っときますけど、お母さんはああいうのは大嫌い。あんたがそんなことを言い出すな
んて、見損なったわ﹂
つ

見損なわれた方は、何がなんだかわからない。当然である。プンプン怒っている母親に、
こ

何だかわからないままゴメンナサイと謝って、海の底に突き落とされたような悲しい気分
ゆず

になって部屋に籠もった。以来、お小遣い問題について持ち出すことは二度となかった。
り く つ

理屈的には││父譲りの論理的な頭で││亘も理解しているのだ。子供に大金を持たせ
としごろ

ほうばい

るのは良くない。努力は自分のためにするもので、金が目的ではないと教えたい。オーケ

イ、わかってるよ父さん。だけど、わかってはいても、同じ年頃の朋輩たちから、アンタ
し て き

んチは厳しいと指摘されれば、なぜそうなのか説明してもらって、安心したいと思うのも

また当然なのだ。安心することさえできれば、そもそも亘は両親のすることに疑いをさし
はさ

挟んではいないのだから、﹁ウチは厳しい﹂ということだって、一種の自慢になるのに。

そのときのことを思い出すと、亘は今でも心がうずくのを感じるのだった。タイミング

が悪かっただけで、亘も邦子も悪かったわけではないのだが、心には傷がついてしまった。

でも、現実なんてみんなそんなものだというミもフタもないこともまた真実だ。

とにかく、﹁ボクはお小遣いが少ない﹂という現実を、亘は生きている。だから今回の

104

ように不自由なことも多々あるけれど、反面、少しずつ貯金をしながら﹃サーガⅢ﹄のポ

スターを眺め、発売日を指折り数え、胸をふくらませる、その喜びは、パッと一万円札を

もらって﹃サーガⅢ﹄を買うことのできる石岡健児のような子供たちよりも、ずっとずっ
と大きい││という信条を守ることもできるのだ。

写真ができてくるまでの中一日、亘はできるだけ強く自分を律して、あの女の子の甘い
げんそう

声のことを考えないようにしようと努力した。でも無駄だった。考えはどんどん具体的に
おそ

なり、恐ろしい幻想と、ピンク色の夢のあいだを、しきりと行ったり来たりした。
あれは誰なのだろう?
どこから亘のそばに来ているのだろう?
どんな女の子なのだろう?
人間なのだろうか?
ゆうれい

幽霊なのだろうか?
ようせい

それとも││もしかして妖精なのではないだろうか?

そう、妖精。それがいちばん近いように、亘は感じた。﹃サーガⅢ﹄でも、主人公のナ

ビゲーション役として登場すると、雑誌の先行情報には書いてあった。﹃サーガⅡ﹄では、

あまり大きな役割ではなくて、マスコット的に出てきただけだったのだけれど、﹃Ⅰ﹄で

105
だんがい

は妖精のニーナは大切なパーティメンバーの一人で、ゲームのなかほどの難所〝ワイトの

断崖〟を登るときには、絶対に彼女の力が必要だった。亘は特にニーナがお気に入りだっ

せんとう

たので、大切に育ててラストダンジョンまで連れて行ったものだから、ラスボスとの戦闘
の前にイベントが起きて、ニーナが、
﹁ここから先は、わたしたち妖精は踏み込むことができないの﹂
が ま ん

なんて言ってパーティメンバーから外れてしまったときには、思わずコントローラーを

取り落とすほどにガッカリした。我慢できなくてカッちゃんに電話すると、
がくぜん

﹁なんだ、知らなかったの?﹂と、あっさり言われてますます愕然とした。

おさ

﹁ラスボスのエレメンタル・ガードは、昔は大トマ国を守護する善き妖精の長だったんだ

よ。だから妖精をパーティに入れとくと、仲間同士で戦うことになっちゃうからダメなん
だ﹂
﹁そんなの聞いてないよ!﹂

﹁あ、ってことは、ノルの泉のイベント起こしてないんだ。だったら知らないわなぁ、カ
しんちょう

ワイソウ、チョー不幸﹂

結局、亘は、慎重を期して保存しておいたニーナを育てる前のセーブデータまで戻り、
ゲームをやり直したのだった。
てのひら

子供の掌に載るくらいの大きさで、背中に羽根が生えていて、ヒラヒラしたきれいなバ

106

いしょう

レリーナみたいな衣装を着ている││﹃ロマンシングストーン・サーガ﹄に登場する妖精

は、だいたいそういう存在だ。ニーナはばっちり、そういうキャラクターだった。絶対に、
か わ い

悪者ではない。可愛くて明るくて親切で、ちょっと口が悪い時もあるけど物知りで、人間

期待と不安があま

とは比べものにならないほどの長い年月を、その愛らしい姿のままで生きている。
亘に話しかけてくるあの甘い声も││そんな存在なのじゃないか?
ばな

りに大きく、それでいてあまりに現実離れしているので、さすがにこのことはカッちゃん

にもうち明けられなかった。写真に何か写っていたら、真っ先に見せに行こうとは思って

うで

いたけれど、姿の見えない女の子の声が聞こえるんだというだけでは、いくらカッちゃん

だって笑うかもしれないし、もっと悪い場合には、心配するかもしれない。
かくにん

学校の帰りに、走って薬局へ向かった。信号や横断歩道のところで立ち止まっては、腕
ど け い

時計を確認した。秒針が動いている││四時五分前、四分前、三分前。

お店に飛び込んでカウンターの前に並んだときには、ジャスト四時十秒前だった。亘の

前に、小太りのおばさんが一人いて、白衣を着たお店の店員さんと、なにやら話し込んで
いる。

あ て な

亘は首をのばしてのぞいてみた。あるある、カウンターの後ろに、現像された写真の入っ
ふくろ

手前から五番目た。

た縦長の袋が立ててある。たくさんある。ざっと二十はあるだろうか。口のところに宛名
が書いてある。目で追って、﹁ミタニ﹂の名前を探した││あった!

107

ちゃんと現像されていた。

﹁だけどちっとも効かないのよ﹂小太りのおばさんが、丸まっちいくちびるを尖らせて、
すす

文句を並べている。

﹁おたくに勧められたから、薬、替えてみたのよ。こっちの方が高いのに﹂
ま ゆ げ

白衣の店員はにこにこしながら、困ったように眉毛をさげている。﹁そうですか⋮⋮で
も、これは評判のいい新薬で﹂

﹁評判なんて聞いたこともなかったわよ。おたくに聞かされるまでは﹂
﹁はあ、そうですか﹂

﹁だから取り替えてほしいのよ。効かないんだもの。効かない薬なんて、イミないじゃな
いの﹂
ふう

こ

封を切ったか切らないかじゃないでしょ?

効くか効かないかじゃないの、

﹁ただ、あの、封を切ってしまった薬のお取り替えはいたしかねますので⋮⋮﹂
﹁どうして?

よ

薬なんだから。新しいのを寄越しなさいよ﹂

にぎ

おばさんの手には、テレビでよくコマーシャルをやっている胃薬の箱が握られている。

亘は、ジリジリして、誰かほかに店員さんはいないかと周りを見回した。ここは大きなお

店で、いつも三、四人は白衣の人がいるのに、今日はなぜかしら見あたらない。レジ係の

女性がいるけれど、あの人では写真の引き取りはやってくれないとわかっていた。

108

じ

え が お

﹁あの、ボク﹂焦れてきて、おばさんの脇から首を出し、カウンターの店員に話しかけた。
﹁写真を││﹂
にら

﹁ごめんなさい、ちょっと待ってね﹂店員は笑顔で謝った。おばさんの方は、亘をギロリ
と睨みつけた。﹁順番よ﹂
ため

﹁それでは、こちらのお薬をお試しになりませんか?﹂
い

白衣の店員は、カウンターの下からひと包みの薬を取り出した。試供品みたいだった。

﹁そんなの要らないわよ﹂と言いながらも、おばさんは差し出されたものを手に取った。
﹁これって、効くの?﹂

ご こ ち

にお

﹁漢方系の新薬ですが、胃もたれや消化不良にはよく効いて、さわやかな飲み心地です﹂

とら

﹁ホントかしら﹂おばさんは薬の包みに鼻をくっつけてくんくんかいだ。﹁ヘンな臭い﹂
だま

店員はまた困ったような笑顔を浮かべているだけで、黙っている。亘はその目を捉えて、
声を出さずに﹁しゃ、し、ん﹂と言ってみせた。
さ

﹁それじゃコレ、もらっていくわ﹂おばさんは試供品を、やたら大きくてふくらんでいる
て

手提げ袋のなかにしまった。

店員と同じくらい、亘もホッとした。しかしおばさんはその場を退かなかった。でんと
居座ったまま、店員の後ろの薬が並んでいる棚を眺めて、
かぜぐすり

﹁風邪薬なんだけど││﹂と、言い出した。﹁あたしは胃が弱いから、強いのは困るのよ。

109
ねむ

眠くなるのも困るの。おたくで売る薬はみんな眠くなるから嫌なんだけど、何か新しいの
ない?﹂
ひじ

亘は思い切って肘でおばさんを押しのけた。そして細長い受け取りの紙を差し出しなが
ら、﹁ミタニです、写真お願いします﹂と言った。

店員はちらとおばさんの方を見たけれど、はい、と応じて写真の袋が立てられている方

ふ

へ一歩踏み出した。亘の首筋に、フハッ!というような感じで生暖かいものが吹きつけて
きた。何かと思って振り返ると、おばさんの鼻息だった。

﹁失礼な子だね﹂おばさんは小さな目を光らせて、ひん曲げた口の端から言った。﹁順番
だって言ってるじゃないの﹂

﹁ごめんなさい。もう胃薬のことは済んだと思ったんです﹂亘はなるべく邪気のない顔を
して、明るくそう言った。
﹁小生意気なガキだよ。親の顔が見たいね﹂

おばさんは吐き捨てると、やっとこさのしのしと身体の向きを変え、カウンターから離
れた。
﹁大人に口答えするなんて﹂

白衣の店員が、さっき亘の見つけたあの縦長の袋を持って、カウンターに戻ってきた。
中身を取り出し、数枚のスナップ写真を手早く見せて、﹁これね?﹂

110

﹁はい、そうです﹂

お金を払っているあいだも、さっきのおばさんの視線と鼻息を感じたけれど、がんばっ

て無視した。店員さんもそうしているようだった。お店屋さんもタイヘンなんだ。あんな
お客でも、お客だったらお客なんだから。

写真の入った袋を手に、走りに走って、気がついたら幽霊ビルの近くまで来ていた。
ほお

息がはあはあしている。頬が熱い。手が震えている。その場ではとてもじゃないけど開

けてみる気になれず、とにかくヒミツでアンゼンで静かなところへ行こうと思うだけで走っ
てきたのだ。

家に持ち帰るわけにはいかなかった。まだたくさんフィルムの残っていた使い捨てカメ
そんなもの、母さんに見せられるはずがない。

ラを、黙って使ってしまったのだから。いや、それよりも何よりも、妖精が写ってるんだ
ぞ!

亘は立ち止まったのに、心臓だけはまだ走っているという感じだった。息を整えながら、
けいだい

周りを見回した。三橋神社の境内へ行こうか。あそこならべンチもあるし、日当たりがよ
くて明るい。人もいない。亘は道を渡っていった。

幽霊ビルは相変わらずシートをかぶり、しんとしていた。前を通り過ぎても、物音ひと

つ聞こえてこない。この前、カッちゃんはあんなことを言っていたけれど、仕事の続きを
う

請けてくれる工務店は、やっぱり見つからなかったのだろうか。あの話は、まとまらなかっ

111

たのだろうか。

はいでん

古びた紅色の鳥居をくぐって、境内に入っていった。赤い柱に緑色の屋根の拝殿の両脇

に、わりと最近設置されたばかりのきれいなベンチがある││左右にひとつずつ││ひと
つずつ││いつも空いていて││
いや、左のベンチに、子供が座っている。
芦川美鶴だ。一人で。

じ ゃ り

頭のなかが写真のことでいっぱいで、見れども見えずというか、誰か座っているという

おそ

ことを、全然気にしていなかったのだ。あっと思ったときにはもう遅かった。砂利を踏む

はば

足音が聞こえたのだろう、芦川が顔を上げて、こっちを見て、目が合った。

芦川は本を読んでいた。なんだか厚くて重そうな本だ。背表紙の幅が十センチぐらいあ
る。それを膝の上に広げていた。

ぽかんと口を開けて、亘は彼の顔を見た。一秒の百分の一ぐらいのあいだ、ベンチの上

に人形を座らせてあるみたいだな、と思っていた。何かの広告写真みたいだ。

芦川は視線をさげて、また本を読み始めた。亘のことなど、まったく気にかけていない。
すずめ

雀か犬でも見るみたいだ。いや、小鳥や子犬が近づいていったのなら、もっといろいろな

かみくず

反応をするだろう。それより悪い。ゴミか落ち葉でも見るみたいな目だった。紙屑だ、葉っ

ぱだとわかってしまったら、もうそれで用済みだというような目だった。

112

せいいっぱい

亘のこと、まだ覚えてないのかもしれない。精一杯、好意的に考えた。そうだ、きっと
そうだ。顔がわからないんだ、そうだよ。
﹁あのさ﹂と、亘は声をかけた。
自分でも笑ってしまうほど、情けないヘロヘロの声が出た。

芦川は最初、顔を上げなかった。亘が、今のひと声は聞こえなかったのかな、そうだ聞
さわ

こえなかったんだな、よしもう一度と決断し、口を開きかけた時になって、やっとこちら

に視線を投げた。雀の子が騒いでる、何だろうるさいな││というぐらいの重さしかない
視線だった。

しゃべろうとして口を開けていた亘を、芦川はちらっと、本当にちらっと眺めた。半秒
の後には、彼の目はまた本の活字の上に戻ってしまっていた。
は

あいさつ

亘は恥ずかしさに、じとっと汗をかいた。ヘンだった。失礼な態度をとっているのは芦

川の方で、亘はただ挨拶という正しいことをしようとしているだけなのに、どうしてこん
なに恥ずかしいのだろう。
じゅく

﹁塾で││一緒だよな﹂と、亘はさらに言った。だからボクにはキミに話しかける資格が

あるんだよと、言葉の合間に必死で弁解しているみたいな気がした。許可がないのに発言
しているわけではないのであります、教官。

芦川はまた目を上げて、今度はさっきよりも長く、亘を見た。ついこのあいだ、隣の教

113

ろ う か

そうぐう

ま つ げ

室前の廊下で接近遭遇したとき、間近に見た長い睫毛が、不意に思い出されてきた。あの
睫毛でさらさらっと触って、ボクを検品してるみたいだと思った。

かみ

気がつくと、芦川はまた本の方に戻っていた。やわらかな風がひと吹き、拝殿の屋根の
な

おさ

けんめい

上から左手の社務所の方へと吹き抜けて、その中間にいる芦川と亘の髪を、それぞれ同じ
やさ

ように優しく撫でていった。
﹁ボク、三谷っていうんだけど﹂

あいいろ

亘は勇気を奮い起こし、勇気ではない何かをぐいと抑えつけて、一生懸命に言った。
﹁あの⋮⋮宮原の友達で⋮⋮えっと⋮⋮﹂
とうとつ

唐突に、芦川は本を閉じた。ぽんと音がした。深い藍色の表紙の、古びた本だった。

﹁だから?﹂と、短く言った。よく通る声だったけれど、あまりに手短な発言で、切って

投げるような言い方だったので、問いかけられているとはわからなかった。

それに亘は、一気にアガッてしまっていた。芦川美鶴と話ができたぞ!

﹁キミがすごく頭いいって、宮原に聞いて、ホントにできるんでビックリしたんだ││﹂

芦川は整った顔をこちらに向けて、笑いもせずにもう一度言った。﹁だから?﹂

それでやっと、亘にも、質問されているのだとわかった。だけど、何を尋ねられている
のかわからない。
さと

そうと悟ったのか、芦川はわざとゆっくりと、小さな子供に言い聞かせるみたいな口調

114

で尋ねた。﹁だ、か、ら?

だから何?﹂

亘は、汗がすうっと引いていくのを感じた。だから?
るのだ芦川は。

だから何だってンのと訊いてい

話なんかする気はないし、亘と親しくなる気もないという意思の、これ以上ないほど簡
潔な表明である。
でもさ、それはないんじゃないの?

﹁本を読んでるんだ﹂芦川は言って、藍色の表紙を軽く撫でた。亘のいるところからは、

こしくだ

タイトルまで読み取ることはできなかった。ただ、漢字が並んでいるのは見える。難しい
本なのだろう。

﹁あ、うん、わかった﹂最初に声をかけたときよりも、さらに腰砕けのヘロヘロした声で、

亘は言った。芦川は亘の顔を見つめたまま本を広げると、ちょっと睨むような目をしてか
ら、読書に戻った。

亘は回れ右をして帰るべきだった。怒ったってよかった。砂利をつかんで投げてやったっ

むく

て││どうせあたらない距離だから││バチがあたることはないだろう。親しくなろうと

思って話しかけている者に対して、あんな口のききかたをする者は、相応の報いを受ける
べきなのだ。

ふ ん い き

それなのに亘は、まだそこに突っ立っていた。芦川美鶴の持っている雰囲気に、完全に

115
の

あこが

呑まれていた。彼は何かすごく〝良い〟感じがした。〝貴重〟という感じがした。意味も

ない引け目と憧れに幻惑されて、〝フン、感じ悪いヤツ〟と切り捨てることが、どうして
もできないのだった。
﹁心霊写真、撮ったんだってね、ここで﹂
大あわてで、すがりつくようにして口にした言葉は、これだった。

関心を引いたぞ。

芦川は本を開いたまま、ゆっくりと顔を上げた。表情は、さっきまでとまったく変わっ
ていなかったけれど、それでも亘は元気づいた。やった!

おもしろ

﹁でもキミは、そういうので騒ぐのはよくないって言ったって。ボクもそう思うよ﹂
ひとみ

芦川の瞳が、ちょっと動いた。明らかに、亘の言葉を面白がっているのだ。亘も口元に
笑みが浮かんでくるのを感じた。

﹁ただ、さ、ムズカシイと思うんだ。大騒ぎをするのはバカだけど、不思議なことって、

ホントにあるもんね。そういうこととは、ちゃんと冷静に向き合わなくちゃ。でさ││﹂
﹁写真﹂と、芦川は言った。
﹁え?﹂
﹁写真、持ってるね﹂

そのとおり、亘は薬局から引き取ってきたばかりの写真を持っている。そもそもここに

は、それをチェックするために走ってきたのである。今も、そのことについて言い出そう

116

ちょう

と思っていたのだ。芦川はそれを先回りした。なんかスゴイぞ。こいつって、超能力者だっ
たりするのか?
亘はまたぞろ高速エレベーターに乗ったようにアガッてしまった。

﹁ボ、ボ、ボクも、もしかしたら、心霊写真みたいなものを撮ったのかもしれないんだ﹂
か

亘は大急ぎで芦川のそばに駆け寄った。砂利を踏むと、宙を踏んでいるみたいな感じが

これで芦川美鶴と友達になれるかもしれないと、手放しで喜ん

した。ひとつの身体のなかに、ヘンだよ、なんでこんなヤツにこんなにドキドキするんだ
よと怒る亘と、やった!
でいる亘がいた。

あせ

﹃ロマンシングストーン・サーガ﹄にも出てくるじゃない?

﹁この写真、ボクの部屋なんだ﹂亘は震える指で写真を取り出そうと、焦った。
﹁妖精って、いるだろ?

ああいうものが、ボクの部屋にもいるかもしれなくて││だって声が聞こえてさ、一度だ
けじゃない、二度もだゼ!﹂

論理と理性と合理性を重んじる三谷明の長男、いつもの三谷亘君だったら、うわずった

か

声で、興奮に頬を紅潮させ、こんな言葉をしゃべり散らすくらいならば、舌を噛んで死ん

でしまいたいと思うことだろう。人間はまれに、自分でも信じられないような、普段とは
きょくたん

極端に違うふるまいをしてしまうことがある。そういうときはたいてい、いろいろな意味

で、いろいろなものに、いろいろな理由で酔っぱらっているのだが、今の亘には、もちろ

117

んそんなことはわからない。
﹁きっと写ってると思うんだ。見てみてよ。これ!﹂
さつえい

ひょうし

やっとこさ、自分の部屋を写した写真を取り出し、芦川に差し出した。その拍子に、薄

いビニール袋に入ったネガと、同じカメラで撮影した動物園でのスナップとが、ばさりと

音をたてて足元の砂利の上に落ちた。亘はそれをまとめてつかんで拾い上げると、ベンチ

の上の、芦川の隣に置いた。芦川は一人でベンチの真ん中に座っており、左右どちらにも
ずれてくれなかったので、亘は座れなかった。

亘の部屋のなかを写した写真は、二十枚近くあるはずだった。芦川はそれを、すいすい
か た す

とカードを切るみたいな手つきで、順番に眺めていった。そうやってひととおり見終わる

と、固唾を呑んで見守っている亘に、初めて笑いかけた。そして訊いた。
﹁どこに?﹂

いっしゅん

そんなものが写っているんだという質問だとわかるまで、二、三秒かかった。
﹁写って││ない?﹂
﹁何も。何ひとつ﹂

芦川は言って、笑みを消し、亘の鼻先に写真を突きつけた。一瞬ぼうっとしたあと、亘

はそれをひったくるように受け取った。手がわなわなと震えて、うまく写真をめくること
ができない。

118

つば

﹁そんな、そんなことあるワケないよ!﹂
べ

うんどうぐつ

唾を飛ばして叫びながら、亘は写真を調べていった。あわてるあまりに指のあいだから
す

スナップが一、二枚滑り落ち、運動靴の甲のところに、はらりはらりと載った。

写ってる││亘の部屋は。壁もカーテンも、ベッドカバーの柄までもよく見える。机の

上の散らかりようも、机の上の小さな本立てに並べられている参考書やドリルの背表紙も、
タイトルまで読み取ることができる。
でも││妖精の姿はなかった。
すそ

女の子の髪の毛一本も、白い指先も、ひらひらする衣装の裾も、何ひとつ写ってはいな
い。なし。ナッシング。

亘は目を上げて、芦川の方を見た。芦川は本を読んでいた。亘など、もうそこにはいな
いみたいに落ち着き払って。
﹁⋮⋮確かに聞いたんだ﹂
つぶや

女の子の声、と付け足す言葉は、亘の口のなかで呟きになって消えてしまった。
﹁そばにいたんだ。だから、絶対写真に写ると思ってたのに﹂
芦川が、細かな活字に目を落としたまま言った。﹁夢だよ﹂

﹁え?﹂亘は彼に一歩近づいた。低い声なので、うまく聞き取れなかったのだ。

ね

﹁夢。夢を見たんだよ﹂ページをめくりながら、芦川は言った。﹁寝ぼけてたから、居も

119

しない人間の声が聞こえたんだ﹂

﹁でも、いっぺんだけじゃないんだ。二度も同じことがあったんだ!﹂
﹁じゃあ、二度とも寝ぼけてたんだろ﹂

芦川は本のページをめくった。大きな章がひとつ終わったのか、白いページが現れた。
芦川は小さくため息をつくと、顔を上げた。﹁踏むよ﹂
﹁え?﹂今度は何だよ。
﹁写真。足元に落ちてるの、踏むよ﹂

彼の言うとおりだった。運動靴の甲の上から落ちた写真の端っこを踏んでいた。それは

おり

動物園で撮ったスナップのうちの一枚で、飼育係からリンゴをもらっている象の檻の前で、
亘と邦子が笑っている。
﹁僕は心霊写真なんか撮ってないよ﹂

亘が写真を拾い上げようと身をかがめると、芦川は言った。亘が彼の顔から視線を外す
のを、待っていたみたいなタイミングだった。

さっき

﹁ここで撮った写真に、幽霊なんか写ってるわけがないんだ。みんなが騒いでるのは、そ
の方が面白いからだ。それだけだ﹂
﹁でも、キミは││﹂

﹁そういうふうに騒ぐのは良くないって、僕は言った。君も同じ意見なんだろ?

120

そう言ってた﹂
芦川は少し、怒っているみたいに見えた。目が輝いていた。
しか

﹁そういう意見の持ち主である君が、妖精の写真を撮ろうとするなんて、ヘンだね﹂
叱られてるみたいだった。

﹁そりゃ確かに││ヘンかもしれないけど、でも僕はホントに、誰もいないところで女の
子がしゃべる声を聞いたんだ﹂

言葉を強めて主張しようと、心では思うのに、実際にはどんどん声がしょぼついていっ
てしまう。

﹁だから、それは夢だったんじゃないかって言ってるんだ。僕だったらそう思う。写真な
んか撮ろうとはしない﹂
芦川は言って、ちょっと首をかしげて亘を見つめた。

﹁自分で言ってることを自分で裏切って、一人で騒ぐなんて、ヘンだ﹂

た

ち

う

亘は何か言おうとして、口をパクパクさせた。そうしないと泣きだしてしまいそうだっ
た。おしっこをしたくなってきた。

まるで大人と話しているみたいだった。いや、下手な大人以上だ。太刀打ちできない。
て ご わ

ルウ伯父さんなんか、この半分も手強くない。誰に似ているかと言ったら父さんだ。いち
ばん理屈っぽくなってるときの、父さんだ。

121

ふう

はた

子供同士の言い争いだからこそ、子供のやることなんだから、子供の考えることなんだ

から││という究極の言い訳が、最初から封じられている。側で見ている大人がいたら、
そんなふうに感じることだろう。

﹁僕には、妖精なんかより、もっとずっと大きな問題があるように思えるけど﹂

なみだ

芦川は、少しも乱れない落ち着いた口調で続けた。亘はそうっとまばたきをして、涙が
こぼれないのを確かめてから、彼の顔を見た。﹁どんな問題?﹂
﹁人によるよ﹂

ひも

芦川は言って、膝の上で本を立てると、表紙と同じ色合いの青いしおり紐を引っ張り出
かか

して、広げてあるページのところに挟んだ。そして、またポンと音をたてて本を閉じると、
小脇に抱えて立ちあがった。
亘はすうっと寒くなった。この会見は、こんな形で終わるのか。
﹁僕がなんか問題あるっていうのかよ﹂
﹁別に、そんなことを言ってるんじゃない﹂
﹁言ってるじゃないか!﹂

またぞろ泣きそうになってきたので、声を張りあげた。こっちだって怒ってるんだ。

芦川は、さっきと反対側に首をかしげて、あらためて、珍しいものでも観察するみたい

122

に、しげしげと亘を見た。それから、その視線をまったく動かさず、表情も変えず、ただ
口だけを動かして、言った。
ち

﹁君ン家、お父さんはいないの?﹂
亘は驚いた。﹁なんでそんなこと訊くんだよ?﹂
﹁いないの?﹂
﹁い、いるよ。ちゃんといるよ﹂
芦川はちょっとまばたきをした。
﹁じゃあ、お父さんは写真嫌いなの?﹂
あご

ますますヘンな質問だ。﹁なんでさ?﹂
芦川は形のいい顎の先で、亘の手のなかの写真を指した。
﹁写ってないね、お父さん。一枚も﹂

亘は写真に目を落とした。そんなこと、全然気づかなかった。そうだったろうか?

﹁うちに帰ったら調べてみろよ。写ってないよ。君とお母さんばっかりだ﹂
亘は、とっさに頭に浮かんだことを言った。
﹁お父さんは写真を撮るのが好きなんだよ﹂

実際には、そんなことはない。というか、三谷明が写真を撮るのが好きか、撮られるの

が嫌いか、そんなことが家のなかで話題になったことさえないというのが正直なところだ。

123

でも、この動物園行きのときは確かに、明は自分は写真に写らず、邦子と亘を撮ってばか
りいた。だから、芦川にそう答えてやったっていいはずだ。
だいいち、そんなこと三谷家の勝手じゃないか。
﹁ふうん﹂芦川は鼻先で返事をした。﹁じゃ、いいじゃないか﹂

そう言うなり、くるりと身体の向きを変えて、さっさと歩き出した。亘は、亘から見れ
とちゅう

ばまだ話は途中なので、芦川が神社の鳥居のそばへ行ってしまうまで、おとなしくその場

に突っ立っていた。だが、芦川はどんどん行ってしまう。そこでやっと、目が覚めたみた
いになって何歩か追いかけた。
﹁おい、待てよ!﹂
芦川は振り返りもしない。何も言わない。
﹁問題があるなんて、ヤなこと言いっぱなしにして、何だよ!﹂

芦川は紅色の鳥居をくぐって、神社の外へ出ていってしまった。あたりは急に静かにな
り、鳥のさえずりが聞こえてきた。
││何なんだよ、アイツ。
変わり者だという以上だ。

急に、なんだかひどく、くたびれた。写真を落とさないように持って、さっきまで芦川

が座っていたベンチに近づき、腰をおろした。さっきまで芦川のものだった視界が、目の

124

ひ と け

前に広がる。だからどうということはなかった。ツツジの花は満開を過ぎて、そこらじゅ

うに花びらが散っている。三橋神社は三橋神社で、境内には人気がなかった。

一枚一枚、手に取って写真をチェックしていった。亘の部屋。やはり、あの甘い声の持
ち主は、どこにも写ってはいなかった。

はと

動物園でのスナップ。羽根を広げたフラミンゴの群をバックにして、おどける亘。鳩に

まぶ

ポップコーンを投げてやる邦子。この日はお天気が良かった。邦子も亘も眩しそうな顔で
笑っている。

確かに芦川の言うとおり、三谷明もまた、どこにも写ってはいなかった。

125

5

事件の影

││今月は、ツイてない。
いや

亘はそう思うことにした。この六月は、何をやっても良くない月なのだ。だからつまら
ないことばっかり起こるのだし、嫌な思いばっかりするのだ。
││夏休みまで、おとなしくしてよう。
きら

あせ

それでなくても、亘は、一年のうちで六月がいちばん嫌いだった。びちょびちょと雨ば

かり降る。急に気温が下がって鼻がぐしゅぐしゅするかと思えば、じっとりと汗ばむよう
ながそで

せんたく

かわ

な夜が続くこともある。長袖を着たらいいのか半袖を着たらいいのかはっきりしないし、

今の洗濯機に買い換えるとき、電器屋さん

か

お気に入りのシャツやズボンが、一度洗濯をしてしまうと、なかなか乾かない。どうして
かんそうき

母さんは乾燥機を買ってくれないのだろう?

すす

に、セットなら勉強しますよって、あんなに勧められたのに。うちは南向きだから必要な

いわなんて言って。いくら南に向いてたって、太陽が出なきゃ洗濯物は乾かないんだ。そ
びんぼう

れに僕は、うちのなかに洗濯物を干すの、貧乏くさくてイヤなんだ。

その点については、さすがは父子というべきか、三谷明も同意見だった。邦子が家じゅ

126

とが

ふ き げ ん

うに洗濯物を干し並べると、彼はあからさまに不機嫌になり、これをどうにかしてくれと、
子供のように口を尖らせて文句を言うのだ。
﹁乾燥機ぐらい買ったらいいじゃないか﹂
ゆ

と、亘と同じ進言もする。だが、邦子の方が聞き入れない。
つ

こ

ぜ

あいさつ

﹁そんなのゼイタクよ。梅雨時だって、一週間も十日もお日様が出ないというわけじゃな
いんだから﹂

雨降りが続くと、そういう小競り合いというか言葉のやりとりは、朝晩の挨拶と同じく
ひ ん ど

らいの頻度で、三谷家のなかに発生した。しかし、それ以外はおおむね平和で何事もなく、
しゅくしゅく

かめ

六月は粛々と││またはじめじめと││過ぎてゆくようだった。やっぱりおとなしくして
うわさ

いるのがいいのだと亘は思い、亀の子のように首を引っ込めて、さらにおとなしくなった。
ゆうれい

あ

幽霊ビルの噂も、亘が気にしなくなったせいもあるのだろうけれど、さっぱり聞こえな

くなった。みんな飽きっぽいのだ。あれから大松家の人たちを見かけることもない。カッ

い ぜ ん

ちゃんも、まったく誰にも会っていないという。そして工事は、依然として再開されない
ままである。

芦川美鶴は、学校だけでなく、﹁かすが共進ゼミ﹂でも優等生であることを証明した。
じゅくちょう

ぬ

二ヵ月に一度、担当の石井先生と、ゼミの塾長先生が﹁みんなの学力の伸び具合を把握す
と

るため﹂に執り行う実力テストで、あっさりと宮原祐太郎を抜き去り、ぶっちぎりのトッ

127

おど

プに躍り出たのだ。今の五年生の塾生たちのなかでトップだというだけでなく、歴代でも
ダントツの成績だという。

亘は、塾でも学校でも、芦川とは顔を合わせないよう、少し古めかしい言い方をするな

らば〝袖振りあう〟ことさえないように、気をつけて毎日を過ごしていった。もうあんな
ご め ん

ふうに、一方的にやりこめられるのは御免だと思った。それも、全力でぶつかりあって完

けん

敗したというのじゃない。亘は必死だったけれど、芦川の方は、なんだか剣の先っちょで
かか

亘をあしらっているみたいだった。だからこそ、その場で傷つけられただけでなく、後で
ごろ

思い出すたびに、また傷が深くなるような気がするのだ。もう関わるのはよそう。
が

い

それに、六月の半ば頃になると、幸せなことに、亘には、芦川や幽霊ビルなんかより、

もっと考え甲斐のある、楽しい目標がひとつできたのだった。ほかでもない、八月まるま
るいっぱいを、千葉の三谷家で過ごそうという計画である。
あ

と

こうれい

今までの夏休みも、七月の終わりから八月の第一週にかけて、海水浴にはいちばん良い
ば

シーズンには、千葉のお祖母ちゃんのところに泊まりにいって、楽しく過ごすのが恒例だっ

ようちえん

た。明はそんなに休みをとれないし、夫が働いている時に邦子が家を空けるわけにもいか

ないので、そういうときは、亘だけがお祖母ちゃんの家に泊まるのだ。幼稚園のころから、

じ

それでへっちゃらだった。ホームシックにかかったり、お母さんに会いたいなんて、一度

お

だってメソメソしたことはなかった。﹁亘は海の子なんだ﹂と、ルウ伯父さんも保証して

128

くれている。

それだから今年は、いよいよ、一週間や十日だけなんていうケチくさいことを言わずに、

八月いっぱい千葉で暮らそうというわけなのである。もちろん、それだけ長くいるという

ことになれば、お客さんテキに遊んでばかりはいられない。お祖母ちゃんの店も、海の家

の売店も、ルウ伯父さんの仕事も、亘ができる限りのお手伝いをするのだ。
す て き

﹁ちゃんと働けたら、それに見合う給料を出してやる﹂と、ルウ伯父さんは言った。亘は、

その話?